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私の第三十四夜をつづります。

前鳥神社蔵の素弁蓮華紋軒丸瓦のこと。

 

相模国府について学んでいた頃、市内で発掘・調査されたさまざまな遺構や遺物の性格・背景について、あれこれ想像(妄想)して飽きなかった。

来る日も来る日も、妄想していた。
平塚市史 別編 考古』の抜刷をヨレヨレになるまで使い込んだ。さまざまな資料から得た雑多な情報を、その抜刷や基礎資料集成や新旧の地形図などに書き込んでは妄想の網を張りめぐらした。

また、調査報告書を読むことにも果敢に(?)挑戦した。しかし、学問というものの基礎・土台を欠いていたので、結局、ほとんど理解できなかった。それでも、本当に楽しい時間だった。

そうした生活から遠のいて、10年以上の時間が過ぎた。
今の私ができることと言えば、ネット上で時たま出会って気になったことを書き留めておくことぐらい。

先日、いつものようにネット上で眺めていた論考(「陸奥国色麻郡所在の渡来仏ー船形山神社御神体をめぐってー」門脇佳代子 渡邊泰伸 2016年『東北福祉大学紀要』第40巻)に、シンプルな古代瓦の写真が載っていた。それは素弁八葉蓮華紋軒丸瓦の写真だった。

気になったのは、そのシンプルな文様の瓦が、前鳥神社平塚市蔵の瓦と似ている?…と思い出したからだった(古代瓦について、およそ何の知識も持たないというのに大それた関心だ)。

ネット上の韓国出土の瓦の写真に、ちょっとワクワクしながら、その報告(「平塚の古瓦ー高林寺境内出土瓦と前鳥神社蔵瓦ー」岡本孝之 新倉香 2003年 平塚市博物館研究報告『自然と文化』№26)の抜刷を探し出した。

意気込んで、ネット上の素弁八葉蓮華紋軒丸瓦の写真(図12 福島市 腰浜廃寺出土、図13 広島市 寺町廃寺出土、図14 熊本市 鞠智城出土、図15 韓国 扶余市 軍守里廃寺出土)と、抜刷の素弁蓮華紋軒丸瓦(第10図 前鳥神社蔵瓦(3)軒丸瓦・垂木先瓦)を見比べる。

 

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前鳥神社蔵瓦(「平塚の古瓦ー高林寺境内出土瓦と前鳥神社蔵瓦ー」岡本孝之 新倉香 2003年 平塚市博物館研究報告『自然と文化』№26から)

 

素人の眼でザックリと(つまり当てずっぽうで)見比べると、抜刷の前鳥神社蔵の軒丸瓦(第10図の7は、ネット上の写真(図12~図15)の寺町廃寺(広島市)出土の瓦(図13)、もしくは軍守里廃寺(韓国)出土の瓦(図15の2点のうち、右側の1点)に似ているように見えた。

次に、うろ覚えだった前鳥神社蔵のシンプルな軒丸瓦について、復習してみた。

抜刷の論考の流れから推定すると、前鳥神社蔵の軒丸瓦(第10図の7)は、飛鳥寺式の軒丸瓦(「第11図 素弁蓮華紋軒丸瓦(奈良国立文化財研究所1998より引用)」)との比較から、「飛鳥寺Ⅰa式(桜花形花弁「花組」)」の瓦に通じるものと考えてよさそうだった。

また、ネット上の論考の流れでは、素弁八葉蓮華紋軒丸瓦は、7世紀後半の陸奥国における渡来系移民の活動を示唆する、傍証資料のような位置づけで紹介されているのだった(論考のテーマは、あくまでも”陸奥国色麻郡所在の渡来仏”としての船形山神社御神体であって、古代瓦ではないのだ。)

ここで、いつものように安易な私の妄想が始まる。

ネット上の論考のタイトル「陸奥国色麻郡所在の渡来仏ー船形山神社御神体をめぐってー」のなかの、「色麻(しかま)郡」の文字に引っかかりを覚えたのだ。

まず、古代の「陸奥国色麻郡」には、移民郷として”相模郷”が存在したことが知られている(『和名類聚抄』には、色麻郡の郷名として「相模」・「安蘇」・「色麻」・「余戸」が載る)

また、現在の宮城県色麻町の北東約15㎞に位置する三輪田遺跡古川市長岡)からは、「大住団」と推定される文字が記された木簡が出土しているのだ(「大住団」は、相模国大住郡に置かれた軍団の名。また、現在の平塚市は大住郡に含まれる)

つまり、宮城県古川市辺域相模国府について学ぶ者にとって、見過ごせない地域なのだった。
この点についても、20年前の企画展の図録『東へ西へ 律令国家を支えた古代東国の人々』〔2002年 横浜市歴史博物館〕)を頼りに、改めて復習することになった(それにしても、手持ちの資料はすでに、ふた昔前のものばかり…)。

過去に学んだことを朧気に思い出しながら、7~8世紀の宮城県古川市辺域には、相模国の人々や、相模国を経由した人々が移り住み、新しい生活を切り開いていったのだな、と改めて遥かに想いをめぐらす。

妄想はさらに飛躍する。

『例えば、韓半島の瓦制作技術を持った人が、移民政策のもと、相模国経由で陸奥国へと移住した可能性のなかで、瓦制作のためのサンプルとして瓦製品を持ち運んでいたかもしれない。そのサンプルのなかに、前鳥神社蔵の軒丸瓦も含まれていて、何かしらの事情で、相模国府域やその周辺のいずれかの地点に遺されることになった?』などという妄想に。

もちろん、前鳥神社蔵の素弁蓮華紋軒丸瓦が、いつ、どこで、どのように作られたのか、或いはまた、いつ、平塚のどの地点に、どのようにもたらされたのか、明確なことは分かっていない。

しかし、『平塚の古瓦ー高林寺出土瓦と前鳥神社蔵瓦ー』の論考においては、前鳥神社蔵の素弁蓮華紋軒丸瓦の出自は「あまり明確でない」とされつつも、「大住郡内の初期寺院の存否にかかわる」として、今後の課題がはっきりと提示されている。

そうなのだ。
相模国府域やその近辺に初期寺院が存在したのならば、相応の時期の瓦が掘り起こされるはずなのだった。しかも、かなり大量に…。

今後、”前鳥神社蔵の素弁蓮華紋軒丸瓦”は、このままひっそりと収蔵されるだけで終わってしまうのか…それともいつの日か脚光を浴びる時が来るのか…私の妄想と期待は続く。

 

【追記】

今回、古代の瓦について、ふと思い出したことの一つに、沼田頼輔氏による「相模國府遺址に就いての一考察」(『考古學雑誌』第17巻第6号〔1927年6月5日 日本考古学会〕 )という論考があり、久しぶりに読み返してみた。 

この論考のなかで、沼田頼輔氏は「相模の國府の大住郡大根村【註】八幡の附近にあることを豫定して居つた」と記している。【註:正しくは「大野村」と思われる】

この「大住国府=平塚」説は、やがて、鋭く卓抜なものだったことが分かる。
その後、平塚市内の発掘調査は進展し、2004年に至って、平塚市四之宮で相模国庁跡が発見されたのだ。

つまり、相模国庁跡が掘り起こされた四之宮地区は、南の「八幡」地区と接していて、沼田頼輔氏が、約80年前に「八幡の附近」と想定したことが、ほぼ的中していたことになる。

そして、相模国府が「八幡の附近」に存在する…と想定した氏の論考は次のように続く。

 「…ところが、偶然にも昭和二年十月、友人が地質研究のため、この地方を蹈査した、大根村【註】八幡と四宮との陸地測量部標杭所在地の附近に於いて、平安時代の古瓦の破片を發見して、余に贈られたので、愈(いよいよ)こゝにこの時代に於いて、寺院か官廳かは未定なるも、少なくともこの時代の建築物のあつた事を認めたのである。余は姑(しば)らくこの建築物を以つて、國府関係のものであることを認めて置く。」
【註:正しくは「大野村」と思われる】

ここで、沼田頼輔氏が言及している平安時代の古瓦」については、すぐに平安時代相模国府関係の建築物に結びつくような質・量であったのか、今となっては知り得ない。
(ちなみに、以前、この論考を眼にした際に、平安時代の古瓦」が発見されたという「八幡と四宮との陸地測量部標杭所在地の附近」とは具体的にどの地点だろう?と、少し思い巡らしてみたことがあった。
「標杭」なるものを設置する場所の目安として、公共的で変動の少ない建造物が選ばれるとすれば、そうした建造物としての”北向観音堂”を含む、現在の坪ノ内遺跡の一帯だろうか?というのが、当時の私の…根拠無き…推定だ。)

こうして、今回も「分からないことが分かった!」という堂々巡りに終わることとなった。

ただ、今回の前鳥神社蔵の素弁蓮華紋軒丸瓦から積極的な問題提起がなされているように、平塚市内出土の古瓦の調査結果から(せめて、四之宮・八幡地区の出土現況から)、どのような問題提起が成り立つのか、それを知りたいものだ…という思いが湧いてきたのだった。

(それにしても、「大住国府=平塚」説を提唱した沼田頼輔氏を含め、さまざまな相模国府説を展開した人々のほとんどが、2004年の相模国庁跡発見という画期的な考古学的成果を見届けることが叶わなかった。
結局、誰もが、その限りある人生のなかで、未来に達成されるはずの画期的な調査結果を、心行くまで見届けることは叶わないのだなぁ…。)