enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

変わることなく、雲は薔薇色に。

f:id:vgeruda:20210111203332j:plain1月10日の夕焼け(平塚漁港から)

 

2020年という1年は、すでに過去の時間として鎮まった。

時に楽天的で、常に雑駁な私は、何となく(根拠無く)そう思い、ちょっと安心したのだった。

しかし、新たな2021年は、淡々と・着実に…かつて、語彙の乏しい権力者がたびたび口にした言葉を使えば「粛々と」…時を刻み始めている。世界じゅうの人々の暮らし方をコロナ禍によって大きく変質させたままに。
当たり前だけれど、世界の様相の現在は、まるごと昨日の続きなのだった。

 

一方、私の脳味噌は、コロナ禍を経ていっそう干からび、取返しがつかなくなっているようだ。何も始まらないし、何も加わらない脳味噌は、それでいて居直っている。為す術が無い…そういうことでもあるのだ。

だから、たまに、干からびた脳味噌が嬉しそうにうごめく一瞬が私にはとても貴重だ。

先日もそんな一瞬があった。
それは AFP BB News のなか(動画:河南省で隋代の漢白玉石棺床墓を発見【2021年1月6日 17:15 発信地:中国】にあった

いつものように『AFPはなぜ、考古学、それも中国の発掘調査に、こんなに詳しいのだろう?』と不思議に感じつつ、動画を見ていた。
すると、アッ!というものが目の前を流れていった。それは確かに、あの”うねる瞼”だった。何度も何度も、動画を止め、拡大し、その”うねる瞼”を確認した。

確固とした”うねる瞼”は、“中国河南省安陽市で発見された隋代の墓の漢白玉(大理石の一種)製石棺床の緻密な彫刻”のなかの、一面二臂(?)の”神の王”(?)の像のものだった。

その顔は仁木弾正のように男前で威厳があり、その肉体も知的な逞しさ(?)を感じさせるものだった(そういえば、その顔は、東寺講堂の帝釈天半跏像の壮年期のものか?と妄想できそうな雰囲気を持つ)。

そして、動画の記事のなかに、次のような説明があった。 

【…棺床の各部には各種図案が彫刻されていた。屏風型の図案には被葬者の日常生活や宗教故事が描かれ、正面2所の格狭間(こうざま)には霊獣が彫られていた。格狭間の両側には楽器を持つ人がおり、棺床の両端には神の王が配されていた。いずれもゾロアスター教の風格が色濃く表れていた。

安陽市文物考古研究所の孔徳銘 所長は、被葬者の麹慶(きく・けい)に代表される麹氏一族について、隴西地方(現在の甘粛省)で長期間生活し、シルクロードの要路を勢力下に収め、欧州や西アジア中央アジアの文化の影響を深く受けていたと説明。「墓内の棺床とそれに施された仏教とゾロアスター教の影響の色濃い数十個の浮き彫り図案は、シルクロードの東西文明が互いに交流し、影響を与え合ったことを歴史的に証明している」と述べた。…】

私には、ゾロアスター教の神の王について何の知識も無く、動画のなかで彫刻の全体像を詳細に確認できるわけもないけれど、ただただ、「隋の開皇10(590)年に麴慶(きく・けい)夫妻を合葬した墓」に刻まれた”うねる瞼”に、眼を見張ったのだった。

そして、”うねる瞼”の表現というものが、中国の古都・安陽市の6世紀末の墓の浮彫(しかもゾロアスター教文化の影響を受けた浮彫)にまで、確実に遡ることができるのだ、と分かって心が躍ったのだ。

こうして、心のほうはまだ干からびるまでには至らず、時に、夕暮れの空の美しさも感じ取ることができる…そんな巣籠もり暮らしが続く。

 

 

生きてゆく。それだけ…。

 

2011年は東日本大震災と還暦の年だった。
10年後の2021年は COVID‐19 延長戦と古希の年…せっかくの新年も、さらに困難そうな予感しかない。

『生きてゆく。それだけ。』 
ぐずぐずと思いあぐねて費やす時間は、日々萎れてゆく肉体のためにこそ使うべきだろうと、心の声がつぶやく。

 

2021年1月2日。
いつもの年と同じように、今年も大磯の長兄宅まで出かける。
午後の街には”お正月三が日”の気配がほとんど無かった。
(もちろん、箱根駅伝の応援帰りの人々の姿も見当たらない。)

ひたすら東海道筋を歩き続ける。
近づいてくる高麗山の変わらぬ姿に、やはり心が動き、安心する。
なつかしいのだ、ずっと見知っているその形が。

凍えるような向かい風も、花水川に掛かる橋を渡る頃には、気持ちが良いほどに馴染んでいた。

 

長兄宅に着き、玄関先でご無沙汰を詫び、そして、家族皆の元気な様子を伺い知り、安堵する。

 

こうしてまた、新しい一年がいつものように始まった。

『生きてゆく。それだけ…。』

 

f:id:vgeruda:20210103151937j:plain青い大山(花水川河口の橋から):大山もいつもと変わらぬ姿。

 

f:id:vgeruda:20210103152054j:plain小さめのダイサギ?(花水川河口の橋から):少し離れたところに、アオサギが蓑を背負ったような姿でジッと佇んでいる。

伊豆山神社男神立像の爪先のこと…再び懲りない妄想。

 

2020年暮れ…ずいぶんと久しぶりに、妄想の扉が開いた。

その扉は、次のデジタル記事がきっかけで開いた。

 

 

上掲の記事の写真を拡大すると、横たわる雷神像写真の風神・雷神像は、山形県大江町の雷神社から町に寄贈されたものというの爪先が眼に飛び込んできた。

その鈎のように湾曲した異様な3本爪…。

これまで、風神・雷神の造形は琳派の屏風絵などで見知るだけで、その足元や爪先の形に注目することは無かった。

『3本爪…?』

妄想の扉は開いてしまった。

雷神が3本爪として造形されることが、雷神の図像の決まり事の一つであるのならば、伊豆山神社男神立像が履く沓の爪先の造形も、沓としてのデザイン以前に、何かしらの図像としての決まり事を仄めかしたものなのでは…?

無理筋と思いつつも、妄想を進めてしまう。
(大晦日もお正月もそっちの ”褻” 暮らしの私にとって、こんな時ほど妄想世界への逃避行はもってこいなのだ。)

ネット上で、雷神の彫刻像の3本爪について検索すると、どうも、雷神の彫刻像の足爪は2本、あるいは3本として表現されるものが多いようだった。
琳派の屏風図のように、人間の足指と同じような形に描かれる場合もあった。)

また雷神から想起される龍神もまた、3本爪の図像として描かれるものがあると分かった。
(むしろ、伊豆山神社の成り立ちを思えば、雷神というより、龍神との係りへと、妄想が深まってゆく。)

伊豆山神社男神立像は、龍神としての象徴を担うために、あのような形の沓を履いているのではないか?』

こうして、お正月を迎える大晦日の用事を後回しにして、再び性懲りもなく、”伊豆山神社男神立像の爪先の造形は、龍神の化身としての象徴か?≫などと、素人の妄想を蒸し返したのだった。

果たして、伊豆山神社男神立像の「先端に盛上りを作り簡略に刻みを入れる大ぶりで力強い沓」(伊豆山神社木造男神立像考」鷲塚泰光の下には、雷神由来の、あるいは龍神由来の”異様な湾曲した3本爪”が隠れているのだろうか。

 

 

 

 

 

【 過去の enonaiehon の記事から】

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① ”伊豆山神社男神立像”(2012年7月26日 enonaiehon )から

 今春の伊豆山神社参詣から3か月が過ぎた。
 昨日、京都での修復を終えて熱海に里帰りした神像を、ようやく目の当たりにすることができた。美術館展示室の奥まった一部屋に、この一体だけが展示されている。神像の重量感、生々しい存在感に見合う空間だ。
 
 初めて対面して真っ先に感じたのは、時代を越えた強い個性と存在感だ。造形としては11世紀当時に生きた人間そのものを写したかのように見える。異質な他者として自己完結しているようで、とりつくしまがない。それでいて、薄く閉じられた眼は、貴族的な超越感とともに、気まぐれな興味、欲望を隠しているようにも感じられる。
 
 また、歌人相模が走湯権現参詣を果たした時点で、このような神像は無かったはずだ…と感じた。なぜなら、このように圧倒的な存在感を放つ神像を拝してのち、権現僧の返歌百首に対し、歌人相模が、再び切って返すような百首を詠むとは思えないからだ。
 そう感じる一方で、歌人相模の煩悩に対して、この神像が権現僧の形、人間の形を借りて百首を詠んだとしても不思議がない…そのような妄想もよぎる。つまり、走湯百首歌群の世界は、この写実的な神像を眼にした歌人相模が、神像を擬人化することでつくりあげた、虚構の枠組みの中での文学世界だったのではないかと。
 
 4月から待ちに待ったこの日、神像を実際に見ることで何かが見えてくるのではないか、そんな期待があった。しかし、ただ頭の中で歌人相模の道を行きつ戻りつしただけで、”11世紀の伊豆国で、なぜこのような神像が祀られたのか”という疑問は残ったままだ。

(この神像の造形について”…唯一異形と思えるのは、足の爪が3本であること。仮に履物の形としても特異であり、また裸足であるというのも頭巾・朝服の出で立ちとは不釣合いに思える。神としての属性が3つの足爪として示されたのだろうか。

 【補記:その後、『三浦古文化』第30号(1981年)所載「伊豆山神社木造男神立像考」(鷲塚泰光)のなかで、「先端に盛上りを作り簡略に刻みを入れる大ぶりで力強い沓の表現も手と同様に平安中期の様式を伝えるものと考えてよかろう」とあり、「沓」であることが分かった。”3つの足爪”は素人の妄想となった。】 

 

② ”伊豆山神社男神立像」の履物”(2016年12月19日 enonaiehon )から


 2012年7月、2016年2月と、伊豆山神社の「男神立像」を間近に見ては、歌人相模との係わりについて妄想を巡らしてきた。
 そして、研究者の方々の知見に接することよって、自分の無知と勘違いに気づかされてきた。それでもなお、この「男神立像」に対する興味はいまだ尾を引き続けている。
 その「男神立像」について、現時点で思い巡らしていることを書き留めておこうと思う。何かをきっかけに、その謎の一端がほどける時が来ることを期待しつつ。

 

伊豆山神社男神立像」の履物~

しかし、その後、「先端に盛上りを作り簡略に刻みを入れる大ぶりで力強い沓の表現も 手と同様に平安中期の様式を伝えるものと考えてよかろう」(鷲塚泰光 「伊豆山神社木造男神立像考」 : 『三浦古文化』 第30号 1981年)という論考によって、自分の無知(大いなる…)を知ることになったのだった。 

 そして、その「沓」と似通う他の作例を知りたいと思ってきた。なぜなら、同じような作例の制作年代が分かれば、伊豆山神社男神立像」について研究者の方が新たに提示された制作年代…「平安時代(10世紀)」…を素直に(?)納得できるように感じたからだった。
 つまり、伊豆山神社男神立像」と同様の履物表現の神仏像の制作年代の多くが10世紀代に集中するのであれば、「男神立像」の年代も10世紀の可能性が高いのかもしれないと。
 そして、ようやく次のような作例を一つだけ、見つけることができた。

 

イメージ 2
鞍馬寺「吉祥天立像」の履物
( 『週刊原寸大 日本の仏像 21』 〔講談社 2007年〕 に
掲載された全身像の足元を切り取り加工したものです。)

 

 ただ、この作例鞍馬寺「吉祥天立像」)については、「像内納入品の年紀から、大治2年(1127)の作」(『週刊原寸大 日本の仏像 21』 〔講談社 2007年〕)とされ、10世紀の作例とはならなかった。
 果たして、履物の表現の違いによって、制作年代をある程度類推できるものなのかどうか…。徒労に終わることを予感しつつ、今後も他の作例を探し、その制作年代を確かめることができればと思う。

補足:
 中国(唐代)の官服について調べるなかで、「先端に盛上りを作り簡略に刻みを入れる大ぶりで力強い沓の表現」よりは、かなり複雑で装飾的なデザインの履物例がいくつかあった。
 その一つの輪郭線をトレースしてみた。こうしたデザインを簡素化すると、伊豆山神社男神立像」や鞍馬寺「吉祥天立像」の履物になるだろうか。

 

イメージ 3

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2020年を共有して…(来たる年こそ)もっと心地よい歌を!

 

2020年がこうした一年になるとは…。

2020年のどん詰まりの夜に、想いはヒュンと飛んでゆく。
地球上のみんなが、きっと今頃、同じ想いを少なからず共有しているんだろうな…と。

凶悪な”コロナ共有実感ウイルス”は、”格差と分断ウイルス”の感染力をはるかに凌駕しているように見える。

2020年、”コロナ共有実感ウイルス”は地球規模で”感染””が広がってしまった。
この一年の間に、多くの人々がその共有実感を保有するに至って、今、2020年末を迎えているのだ。

共有実感の皮肉な蔓延とは言えるけれど、みんなで実感を共有することで、受け持つ恐怖はいくばくか軽減されているようにも思う。

いや、それは甘い慰めだろうか?

もしかすると、この共有実感にさえも”格差と分断ウイルス”が重なるようにはびこり、恢復への道のりをややこしいものに捻じ曲げてしまうのだろうか。

2020年に”コロナ共有実感”を保有するに至った私たちが、2021年には、どうか、賢くも正しい道のりを探し当て、お互いを恢復し合うことができますように。

 

f:id:vgeruda:20201231231032j:plain12月30日の海①

 

f:id:vgeruda:20201231231103j:plain12月30日の海②

 

f:id:vgeruda:20201231231359j:plain12月30日の”月の道”(真鶴駅から見る相模湾上の月):家族から貰った写真。

 



 

年の瀬のなかの”秋”

 

27日午後、図書館で本を借りてこようと街に出た。

街なかの八幡様の横を過ぎ、信号待ちをしていると、歩道際に咲き残る薔薇に気がついた。ピンク色の薄い花びらが西陽を透かしていた。

携帯を取り出し、その薔薇を写そうとしたちょうどその時、友人からメールが届いた。

で、お互いにちょっとした偶然が重なり、図書館の近くで逢うことになった。

2020年という一年が押し流されるように終わってゆく虚しさ。来年の見通しが少しも立たず、今年と同じような一年が繰り返されることになる予感。

お互いの思いはため息へ変わってゆく。

それでも、最後に友人は、それらのもどかしさを忘れさせるほどの香りに満ちた花束を、私に手渡してくれたのだった。

今、家には3冊の本と一抱えもある香り高い花束…いつになく前向きな気持ちになれた一日だった。

 

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今日28日は、届け物をしようと、海岸近くの次兄の家に向かった。

途中の公園を通り過ぎる時、細やかな黄葉が豊かに枝垂れて、道へと流れ出ている姿が目に入った。萩だった(たぶん…)。

年の瀬の今なお、町のそこかしこに残る”秋”の余韻を確かめながら歩き続ける。

次兄は留守をしていた。

玄関先に届け物を置き、兄の出かけ先を考える。
お墓参りかな…?

帰宅してしばらくすると、次兄から電話があった。

思った通り、次兄は義姉の墓前に出向いていたのだった。兄の2020年もまた、もうすぐ終わってゆく。

 

「 秋萩の 下葉の黄葉 花に継ぎ 時過ぎゆかば のち恋ひむかも 」
                     (『万葉集』 巻10 2209 作者不詳)

 

 

南の空の茜色。

 

12月15日、安曇野の友人からのメールには、「昨日から雪が舞い始めた…」とあった。

続くメールのなかで、友人は、先のメールの中の脱字を訂正してきた。
(私は、全く気がつかず、その字を補って読んでいた。)

NHKのローカルニュースで”John”の綴りミスが気になっていたのに間違って…自分も気をつけねば…」と友人は気にしている。

何だか、可笑しかった。

偶然、私もその日、読んでいた朝日新聞の記事中で、”ブリガリア”(もちろん、正しくは”ブルガリア”)という誤記に出会っていた。

私もそうした誤字・誤記が気になる性分なのだった。
(まだ20代の頃という大昔、原稿中の「持続天皇」…もちろん、正しくは「持統天皇」…をそのまま素通りし、”校了”とした経験がある私。それなのに、人のミスだけはやけに目につく…という性格の悪さは、いまだ目玉の奥底に張り付いているのだ。自分が犯すミスの多さは、ドンと棚に上げて…。)

 

16日、17日…列島は、雪の女王が翻した白い裳裾に覆われてしまったように見える。


それでも、安曇野の雪は2㎝ほど積もって、やがてほとんど溶けていったようだ。

 

安曇野の友人とのメールのやり取りが、列島を覆う白い雪雲を超えて、他愛無く続く。

 

 

 

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16日夕方の人魚姫:南の海上の空には、茜色の雲…。12月の夕焼けの不思議な色合い。

12月の日曜の午後。

 

13日午後、町の中央公民館でコンサートが開かれた。
そのコンサートのサブタイトルは「希望を音楽にのせて」。

コロナ禍の2020年を、”希望の音楽”で見送ることができるのは、とてもありがたかった。

会場まで、街なかを抜けてゆく。
ゆっくりと歩きながら晩秋(初冬?)の空気を味わう…こうして師走の街なかを歩くだけで、何だかしみじみと幸せな気持ちになる。向かう先には、音楽にひたる時間があるのだし…。

 

3部構成のコンサートは盛沢山だった。

そして、町のホールは、出演したテノール歌手にとっては小さすぎるかのようだった。
「星は光りぬ」も、さらに「誰も寝てはならぬ」も、そのゆたかな声量によって、私の鼓膜は現実に振動し、ビリビリと震えた…そんなことは初めてだった。

コンサートは2時間半近くに及び、終わった。

会場の外に出る。街にはすでに薄闇が下りていた。

ふと、来年の師走に「第九」を聴き、今日のコンサートのことを思い出してみたいな…と思った。
12月の日曜の午後。
音楽にひたった時間は、確かにこんなふうに、私に”ささやかな希望”を持たせてくれたのだった。

 

 

f:id:vgeruda:20201214205931j:plain12月13日のプログラムから
(『平塚 オペラ・ガラ・コンサート2020 ~希望を音楽にのせて~』)