『武士の成立』を読む途中で、”佐伯経範”のことを図書館で調べてみる。
【佐伯経範のこと】
「・・・是時官軍中有二散位佐伯経範者一。相模国人也。将軍厚遇ㇾ之。軍敗之時。囲已解。纔出不ㇾ知二将軍処一。問二軍卒一。軍卒答曰。将軍為二賊所一ㇾ囲。従兵不ㇾ過二数騎一。推ㇾ之叵ㇾ脱矣。経範曰。我事二将軍一已経二卅年一。老僕年已及二耳順一。将軍歯亦逼懸車(註:懸車は七十歳の別称)。今当二覆滅之時一。何不ㇾ同ㇾ命乎。地下相従是吾志。還入二賊囲中一。其随兵両三騎亦曰。公既与二将軍一同ㇾ命死ㇾ節。吾等豈得二独生一乎。雖ㇾ云二陪臣一。慕ㇾ節是一也。共入二賊陣一。戦甚ㇾ捷賊殺二十余人一。而□□□□殺死□□如林皆歿二賊前一。(後略)(陸奥話記)
*本史料は波多野氏の祖と考えられる佐伯経範が前九年の役に源頼義の軍に従い、天喜五年(1057)十一月の鳥海(註:黄海か?)の合戦において討死した記事である。佐伯経範は藤原秀郷の後裔である藤原公光の子で、母は佐伯氏。『尊卑文脈』傍注には「右馬介、兵庫介、従五位下、後冷泉天皇の時に勲功あり、天喜五年十一月安倍貞任の陣に入りて死す」とみえる。また『秀郷流系図(波多野)』には「公俊 使左衛門尉相模守公光四男」とみえ、さらに『秀郷流系図(結城)』には「本名公俊姓佐伯 天喜元年十一月任二軍監一」とみえ、公俊とも称したことが知れる。」(『秦野市史 第一巻』(1985年))