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私の第三十四夜をつづります。

歌人相模の時代から中世へ-佐伯経範のこと②

 『武士の成立』を読む途中で、”佐伯経範”のことを図書館で調べてみる。
 彼が相模国人であること、源頼義が勝利を得た前九年の役のなかで戦死したらしいことに興味を持ったからだ。
 11世紀前半の相模国司大江公資、源頼義…彼らと同時代に生きた佐伯経範を知ることで、歌人相模の道とは別の新しい道をたどれるかもしれないと思う(なんと散歩の楽しみに似ていることだろう)。
 
 【佐伯経範のこと】 
 『秦野市史 第一巻』に引用された『陸奥話記』の一部に、”佐伯経範”について次のように記されている。
「・・・是時官軍中有散位佐伯経範者相模国人也。将軍厚遇ㇾ之。軍敗之時。囲已解。纔出不ㇾ知将軍処。問軍卒。軍卒答曰。将軍為賊所一ㇾ囲。従兵不ㇾ過数騎。推ㇾ之叵ㇾ脱矣。経範曰。我事将軍已経卅年。老僕年已及耳順。将軍歯亦逼懸車(註:懸車は七十歳の別称)。今当覆滅之時。何不ㇾ同ㇾ命乎。地下相従是吾志。還入賊囲中。其随兵両三騎亦曰。公既与将軍同ㇾ命死ㇾ節。吾等豈得独生乎。雖ㇾ云陪臣。慕ㇾ節是一也。共入賊陣。戦甚ㇾ捷賊殺十余人。而□□□□殺死□□如林皆歿賊前。(後略)(陸奥話記) 
 *本史料は波多野氏の祖と考えられる佐伯経範が前九年の役源頼義の軍に従い、天喜五年(1057)十一月の鳥海(註:黄海か?)の合戦において討死した記事である。佐伯経範は藤原秀郷の後裔である藤原公光の子で、母は佐伯氏。『尊卑文脈』傍注には「右馬介、兵庫介、従五位下後冷泉天皇の時に勲功あり、天喜五年十一月安倍貞任の陣に入りて死す」とみえる。また『秀郷流系図(波多野)』には「公俊 使左衛門尉相模守公光四男」とみえ、さらに『秀郷流系図(結城)』には「本名公俊姓佐伯 天喜元年十一月任軍監」とみえ、公俊とも称したことが知れる。」(『秦野市史 第一巻』(1985年))
 以上の『陸奥話記』からは、佐伯経範の1057年時点の年齢がおよそ60歳、源頼義は70歳近くであったこと、佐伯経範が源頼義と30年来の関係を築いてきたこと、その関係が始まる時期は源頼義相模国司着任(1036年)と重なることが確かめられた。
 相模国において、1020年から1024年にかけて歌人相模が作歌活動を行っていた時代・・・戦火とは遠い時代を過去に押しやるようにして、数年後の平忠常の乱を経て、さらには前九年の役へと、東国の社会は新しい時代に近づきはじめていったのだろうか。