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私の第三十四夜をつづります。

歌人相模の時代から中世へ-佐伯経範のこと③

 佐伯経範の生没年を『陸奥話記』をもとに推定すれば、997年前後~1057年となる。
(ただ、彼が”藤原公光の子”であるとすると、次のように年代が合わなくなる。 
 【父・藤原公光について】 
 『尊卑分脈』では「従五位下相模守、実父公行、母兵衛佐?文女 上東門院宣旨」とされる。実父とされる公行は『日本史総覧Ⅱ』を見ると「前佐渡(註:1027年時点)」「前司(註:前土佐守、1028年時点)」とあり、その生年は雑駁に見積もって990年前後、公行の子とされる公光も1020年前後ではないかと想像される。系譜上”公光の子”とされる佐伯経範であるが、『陸奥話記』をもとに推定した生没年とすれば、養子としても先代の年代より先々代の年代に近いことになる。なお、逆に源義朝の子・朝長の生没年をもとに伯父義通、祖父遠義、さらに秀遠・経秀・経範とさかのぼった場合は、佐伯経範のおおよその生年を11世紀前後に想定することは可能のようだ。)
 また、歌人相模の生没年も不明とされているが、990年代(992年説、998年説など)~11世紀後半(1061年以降)との研究があり、佐伯経範とはほぼ同じ時代を生きたことになる。
 この時期は相模国府域の遺構・遺物がしだいに影をひそめてゆく頃だ。その代わりに、系図や日記・史書・軍記など、さまざまな視点から歴史が語られ始める。
 そうした東国の歴史のなか、佐伯経範という人が相模国源頼義とどのような関係性を築き、1020年代の国司大江公資とはどのように係わったのだろうか。11世紀前半の相模国府のなかで何らかの足跡を残しているはずの彼ら・・・将来、彼らの足跡と発掘調査成果とが結びつく日に立ち会うことができればと思う。おそらく西相模の地域を拠点に活動したと想像される佐伯経範・・・ひとまず、彼の名を知ることになった『武士の成立』の読書に戻りたい。