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私の第三十四夜をつづります。

郡庁と正倉の時期

 15日に群馬県太田市の天良七堂遺跡の現地説明会があることを知った。私が最後に訪れたのが2007年。その翌年、「史跡上野国新田郡庁跡」として指定されている。5年ぶりに現地に行ってみようと思いながら、情けないことに雨と寒さにめげてしまった。
 現説には行かなかったが、せめて現説資料だけでもと、全体の配置図を眺めてみた。素人眼では、郡庁と正倉群との距離感や配置など、相模国高座郡衙と似通って見える。そして、新田郡庁の建物と正倉群とは時期的にどう対応するのだろうかと疑問が生まれた。やはり現地説明会に行けばよかった。直接質問できる貴重な機会だったのにと思う。
 相模国高座郡衙の場合、報告書では正倉の遺構が竪穴建物の遺構に切られた時点で、郡庁そのものも廃絶したと考えられている。これに対し、正倉群の一部の存続時期と郡庁の存続時期とは別々に考えるべきとの立場から、郡庁存続期間を見直す論考も出されている。遺物から遺構の時期が明確には特定できず、遺構同士の切り合い関係も無い場合、複数の建物のそれぞれの時期や変遷の様相を分析するのは難しい作業なのだろうと思う。
 新田郡庁の場合、郡庁は1・2段階(7c後半~8c前半)、3・4段階(8c中葉~後半)、5段階(9c前半~)の変遷が組み立てられているが、北側の正倉群、西側の正倉群が郡庁のどの時期に対応するのかは、まだ現説資料には示されていない。今後、正倉群の時期はどのように分析され、郡庁建物とどう関連付けられてゆくのだろうか。新田郡庁の成果が高座郡衙の今後の分析にも係ってくるようで、とても楽しみだ。