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私の第三十四夜をつづります。

”鎌倉の大仏”から学ぶ

 自分がいかに何も知らないか…を思い知る時、いつも思い出すのが昔教科書で読んだ”仁和寺の法師”のエピソードだ。自分はこれまで”仁和寺の法師”のように見聞して生きてきたと思うし、きっとこれからも憧れる本来の場所に辿りつくことはないのだろうと思う。
 23日の鎌倉でも、高徳院での多様な調査成果を拝聴しながら、これまで自分が”鎌倉の大仏”について何も見ていなかったのだと感じた。自分にとっては観光の対象であった”鎌倉の大仏様”が、御住職によって検証され続けていること、そしてその成果に新鮮な驚きを感じた。
 御住職による講義のなかでも、発掘調査によって「大仏殿礎石下版築遺構から検出された礫群の採取地点」(松島義章 2010 『神奈川地学』)が解明された事例が興味深かった。当初存在した大仏殿…その礎石下で発見された根固め遺構が海浜礫と土丹(ドタン)で版築されていたこと、さらに、その海浜礫の形状・重量分布、礫種組成比から、その採取地点が特定され、その範囲は「現在の茅ケ崎市白浜町から藤沢市辻堂西海岸」とされたこと。
 考古学の魅力の一つは、眠っていた埋蔵文化財に光があてられ、地道な研究によってその具体的な出自が明らかになることではないかと思う。”鎌倉の大仏”を支えてきた礎石は根府川石であり、その根固めには茅ケ崎・辻堂の海浜礫や鎌倉の土丹が使われていること…12世紀末当時の造営工程に係った地域の人々の姿にまで光があてられたように感じられた。
 また、15世紀末には失われた大仏殿については、柱間図やCG画像が復元されていた。屋根については瓦の出土が無いことから、檜皮葺もしくは杮葺きであったようだ。鎌倉の大仏殿さえも非瓦葺である可能性…相模国府の国庁模型制作作業にもつながる情報だと感じた。