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私の第三十四夜をつづります。

8c初頭の相模国庁

 六月に入って、8世紀初頭~前半の時代に戻って”夢うつつ”の時間を過ごしてきた。相模と常陸の国庁創設について、簡単な比較表を作る必要に迫られたからだ。
 結局、確認事項をまとめるのがせいぜいで、新たな疑問が増えただけで終わった。それでも、これまで手にしたことも無かった『続日本紀』を恭しく開いたこと、読もうと思ってそのままになっていた『古代地方行政単位の成立と在地社会』(奈文研 2009)や『東国の古代官衙』(高志書院 2013)を読み始めることができた。六月の前半の時間で得たささやかな収穫だ。
 相模と常陸の二国を比較する理由は、相模国庁の脇殿が、常陸国庁のように、2棟ずつ縦列する可能性があるためだ。8c前半の時間幅で、両国庁の規模や時期変遷、国司補任を比較し、定型的な国庁成立が相模は常陸に半世紀ほど後れること、国司補任を連続して確認できる時期も35年ほど後れること、両国の初期国庁・前身建物のプランが大きく異なることなど、共通点よりも相違点のほうが際立つ結果となった。
 そして、それはなぜなのか・・・。
 今、国庁とはどういうものか、何をもって国庁と判断するのか、その定義すら覚束なくなっている。
 *8c中葉の定型的な相模国庁成立まで、8c前半の(記録に載らない)相模国司達はどこで儀式を行い、政務を執っていたのか。
 *相模川をはさんだ高座郡で、定型的配置の郡庁(報告書では8c第1四半期後半~第2四半期初頭)が既に成立している時期に、相模国庁の”8c初頭の前身建物”は”国庁”であったのか。そうであるならば、脇殿的前身建物は、正殿的前身建物を伴っているのだろうか。
 *定型的な相模国庁が未成立の段階で、高座郡庁のプランは何をモデルにしたのか。
 *相模の前身建物と常陸の初期国庁とのプランの違いは何に起因するのか。国の等級差にもとづくものなのか。
 *常陸の初期国庁プランのモデルは何か。東面するのはなぜか。前庭の広さが国庁として十分か。
 次から次へ疑問はつながり、混乱が深まってゆく。六月の前半は、やはり”ハテナ”の収穫に終わっただけかもしれない。
イメージ 1
2006年3月時点での常陸国衙跡の現地説明会(東から撮影)
 写真左手に国庁第Ⅱ期と第Ⅲ期の前殿が重複している様子が赤テープで示されている。
 石岡小学校の現場には過去に数回参加した。この時は、後に初期国庁正殿とされた東庇建物や、国庁第Ⅳ期・第Ⅴ期正殿とされた建物、さらには初期国庁以前の建物の説明などが丁寧に詳しくなされた。その場ではメモするのがやっとで、帰宅してからメモを一つずつ説明会資料の図版で確認し直したことが懐かしく思い出される。