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私の第三十四夜をつづります。

宝城坊本堂下の調査

 昨日、横浜市歴史博物館で開かれた「神奈川県遺跡調査・研究発表会」(神奈川県考古学会主催)に出かけた。そのなかに、歌人相模とも所縁のある日向薬師についての発表があった。
 現在、伊勢原市日向薬師では、宝城坊本堂の”平成の大修理”が進行中だ。日向薬師には改修前の2011年2月・11月に訪ね、解体途中の現地見学会にも足を運んできた。その後の様子が気になっていた私には、ちょうど良い機会だった。
 2012年3月の「日向・宝城坊本堂見学会」では、本堂を覆いつぶすかのようだった大きな屋根の茅葺がはがされ、意外に細い印象の小屋組が露わになっていた。拮木だろうか、切り出されたままのような形の部材が粗い木肌をさらしていて、江戸時代へと時間を遡ったような生々しい印象を受けた。
 その本堂は今すっかり解体され、本堂跡地が礎石のみとなったのを機に、トレンチを設定し、確認調査が実施されたという。つまり、日向山の南尾根上に立地する本堂の地盤構造(標高約226mの平坦面)と、17世紀半ば頃に修造したとされる本堂以前に、古く遡るような建物があったのかどうか、が明らかになりつつあるのだ。
 今回の発表では、本堂の地盤は大規模に削平して造成されたものであること、また、本堂以前の建物の有無については、溝状遺構やピットが検出され、溝状遺構の覆土から平安時代後半のロクロ土師器の底部、縄叩き痕のある瓦片(埼玉県水殿瓦窯産?)が出土したことから、1200年代には何らかの建物があった可能性などが報告された。
 その建物がはたして、11世紀初頭に相模が参籠した堂宇へとつながるものかどうかは分からない。しかし、今回の確認調査で、”古代大住郡の正倉院”のように貴重な文化財を伝えている日向薬師について、新たな視点から光が当てられたことは、大きな楽しみだ。
 興味の尽きない発表を聞きながら、一千年前にこの地を訪れた相模は、こうした会の発表要旨に自分の名前が上がることなど、よもや想像しなかったことだろうと感慨深く思った。
 日向薬師の僧に薬師経を読ませ、堂を出る日に「さして来し 日向の山を頼むには 目も明らかに みえざらめやは」と、柱に書きつけた相模。その堂の柱は朽ち果ててしまったとしても、今回の調査によって、また少し相模の時代に近寄ることができるかもしれない。
 
日向薬師へ向かう道(2011年2月24日)
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解体前の宝城坊(2011年2月24日)
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解体途中の宝城坊(2012年3月18日)
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