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私の第三十四夜をつづります。

かながわ考古学財団の発掘調査成果発表会

 8日朝、かながわ考古学財団の発掘調査成果発表会に出かけた。埋蔵文化財に興味をもつ一般市民にとって、財団の催しは貴重な機会だ。今回も、発表会だけでなく、選ばれた出土品を間近に見学することができた。
 そのなかで、私が通う新横浜の病院に近い遺跡から出土した弥生中期前葉の甕があった。遺跡名は新羽浅間神社遺跡。弥生時代の人々の生活圏だったとは知らずに、年に何回か、鳥山川にかかる三角橋を渡ってきたが、開発が進むその周辺地域に遺跡があって不思議はなかったのだ。
 それにしても、弥生時代中期の甕?…素人の私は須和田式と宮ノ台式の名前、それらの”壺”のシルエットをぼんやり思い出すだけだった(弥生時代の甕はこんなに装飾的だったのか…)。
 
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弥生中期前葉…中葉に近い…の甕(新羽浅間神社遺跡〔横浜市〕 1号土器棺墓)
 
 遺物を見て午前の発表を聞いた後、「東電テレビ会議 49時間の記録」(制作:特定非営利活動法人OurPlanetTV)の上映会に参加するため、鎌倉に向かった。小さな会場を埋めつくした人々は計3時間26分の編集記録を食い入るように見続けた。私も友人も、映像と音声の刺激による緊張のためか、酸欠状態の金魚のようになる。休憩時間に慌てて外に出て新鮮な空気を深呼吸した。
 はるか遠い過去の人々は地上から姿を消し、遺物はその存在の痕跡を言葉少なに語る。その言葉を自分に引き寄せて聞くことは、いわば自分のなかだけのやり取りでしかない。しかし、今まさに生き続ける人々の生々しい記録が伝えるものを、消化して言葉でくくり直すことはむずかしい。それは自分のなかだけのことでは済まないものがあるからなのだと思う。
 上映会を終わって外に出ると、冷たい夜の空気が心地よかった。友人と暗い道を歩きながら、いろいろな思いがぐるぐると駆け巡った。歴史は繰り返すのかもしれない。しかし、繰り返してはいけない歴史があることを、その記録も語っていたように思う。私たちはそのことを見据えて、時代の流れを選び取っていかなくてはいけないのだ。