~「三宮相模君」の歌に何を読みとるか~
左勝 三宮相模君
ゆふされば をばなおしなみ ふくかぜに たまぬきみだる のべのしらつゆ
右 皇后宮少進兼昌
いなづまの ひかりにまがふ ゆふつゆを ひとるたまとも 思ひけるかな
三宮相模君は、「雲居寺結縁経後宴歌合」において「露」の題で「左」として歌を詠み、「右」の源兼昌…百人一首の「淡路島 かよふ千鳥のなく声に 幾夜ねざめぬ 須磨の関守」の歌で知られる歌人…を退けて、「勝」の判を得ている。
藤原基俊の判詞を読むと、“左・三宮相模君の歌は古風であるけれども難がない”、“右・兼昌の歌は譬えに難があり、また、歌の詞が新し過ぎる”ということらしい。
確かに三宮相模君の歌は自然でよどみなく、900年後の世界に生きる私にも、そのまま素直に届く。一方、兼昌の歌では、「ひとるたま〔火取玉〕」の語が私の理解をはばんだ。昭和10年発行の『大言海』(冨山房)で「火取玉」を調べ、ようやく“稲妻の光→夕露→火取玉”という、兼昌が提示した斬新なイメージ展開を理解することができた。
“歌の詞もあまり新奇で珍しければ”、後世の人の心に生き残ることは難しいのかもしれない。やはり、この歌合の五番における基俊の判は、彼の歌論に沿ったものであり、一理あるものだったのだろう。