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私の第三十四夜をつづります。

「夕されば 尾花おしなみ 吹く風に 玉ぬき乱る 野辺の白露」(3)

~「三宮相模君」の歌に何を読みとるか~
 
     左勝                            三宮相模君
 ゆふされば をばなおしなみ ふくかぜに たまぬきみだる のべのしらつゆ
     右                             皇后宮少進兼昌
 いなづまの ひかりにまがふ ゆふつゆを ひとるたまとも 思ひけるかな
 
 三宮相模君は、「雲居寺結縁経後宴歌合」において「露」の題で「左」として歌を詠み、「右」の源兼昌百人一首の「淡路島 かよふ千鳥のなく声に 幾夜ねざめぬ 須磨の関守」の歌で知られる歌人…を退けて、「勝」の判を得ている。
 藤原基俊の判詞を読むと、“左・三宮相模君の歌は古風であるけれども難がない”、“右・兼昌の歌は譬えに難があり、また、歌の詞が新し過ぎるということらしい。
確かに三宮相模君の歌は自然でよどみなく、900年後の世界に生きる私にも、そのまま素直に届く。一方、兼昌の歌では、「ひとるたま〔火取玉〕」の語が私の理解をはばんだ。昭和10年発行の『大言海』(冨山房)で「火取玉」を調べ、ようやく“稲妻の光→夕露→火取玉”という、兼昌が提示した斬新なイメージ展開を理解することができた。
“歌の詞もあまり新奇で珍しければ”、後世の人の心に生き残ることは難しいのかもしれない。やはり、この歌合の五番における基俊の判は、彼の歌論に沿ったものであり、一理あるものだったのだろう。
また、文学的な視点を離れて、「永久の変」(1113)での皇后宮・令子内親王と三宮・輔仁親王という対立的な構図や、この歌合が行われた1116年という時期、すなわち、輔仁親王の失脚(1113年)から有仁王臣籍降下(1119年)までの中間地点にあたるこの時期に視点を置く時、「露」を詠んだ五番左の歌には、白河法皇の意思に押し靡かせられ衰微し離散してゆく三宮家の、抗しがたい運命が歌われているように想像する。そして、そのことは、三宮相模君が所縁を持つらしい12世紀前後の相模国に生きた人々の運命にも通じるものがあるのではないだろうか。