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私の第三十四夜をつづります。

歌人相模 と 源 経信

 最近、過去の人々の足跡が、ジグソーパズルのピースのように思えることがある。心惹かれた人の足跡を追ってゆくと、思いがけない別の足跡にめぐりあう。歴史に名を残す人々はごく限られているのだから、どこかでつながりを持つのは、別に不思議なことではないのだろう。しかし、私はいちいち驚く。
そして、その混沌とした歴史の迷宮のなかで、気になるピースを見つけては拾いあげる。『これは何だろう?』…とりあえず、ポケットに入れておく。私にとっては、全てが未知で新鮮な足跡だから。
ランダムに散らばっているピースも、一定の嗜好によって選択され、蒐集されていくと、ポケットの中で自ずと接合して、何かしらの絵柄を構成していったりするものだろうか。(今のところ、拾ったピースたちが、意味ある一つの物語を形作ってゆく気配は感じられないのだが。)
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今回、「経信集」(『新編国歌大観』)のなかで、源 経信が詠んだ下の句に歌人相模が上の句を付けていることを知った。その経信と相模のやり取りを『新編国歌大観』から引用させていただく。
「十月ばかりに 入道一品宮に まゐりたりしに、さがみが いそぎいでてあひて、こと人となむ おもひつるに といひしかば、心なくまゐりにけるかな といひしほどに、月いとあかかりしに、しぐれのせしを見て
152 月ふりかくす あめにおとして
     といひしかば、相模
153 からころも そでこそぬるれ あきのよは 」
 
先に、“三宮相模君”の歌を載せる「雲居寺結縁経後宴歌合」について調べた際に、源 俊頼〔10571129〕の名に出会ったが、今回、源 経信〔10161097〕は彼の父にあたることを知った。
歌人相模〔9912?~1061以降?〕は、経信より25歳ほども年上ということになるが、詞書からは、歌心を共有する者同士の親しい感情を読み取れるように思った。
152153の歌が詠まれた時期については、『相模集全釈』の「年表」をもとに推定すると、相模が一品宮脩子内親王のもとに出仕した期間(1028年頃から、脩子内親王が亡くなる1049年頃まで)のかなり後半…経信が30歳前後、相模が50代半ば頃…のように思われた。
また、152153のやり取りで私が興味を持ったのは、「こと人となむおもひつるに」と「心なくまゐりにけるかな」という詞書だった。私の乏しい読解力では、
*経信が相模に「別人だと思ってしまった」と言った
*相模が経信に「考えもなく参上したことです」と言った
というような理解になる。
そして、仮に相模がこの時期に50代半ばであったとするならば、大江公資や藤原定頼が次々と世を去るなかで、晩年の相模は心身両面で大きな画期を迎えていたものと想像した。つまり、経信は、久しぶりに出会った相模の面変わりに少し驚いたのではないだろうか、と理解した。
さらに、二人が脩子内親王のもとで出会ったのが「月いとあかかりしに」という時刻であったことと、「心なくまゐりにけるかな」の言葉が意味するところに、疑問を感じた。これについては、相模や経信が脩子内親王のもとに参上したのは、おそらく内親王のお見舞いではなかったか、と想像した。こうした場面設定を妄想させるほどに、二人のやり取りは妙に生々しいものに感じられたのだ。

「 からころも そでこそぬるれ あきのよは 月ふりかくす あめにおとして 」

もし、私の読解が誤りで、経信と相模の立場(言葉)が全く逆である場合、どのような場面設定になるのだろうか。想像が広がってゆかない。
11世紀中葉のある年の十月、月の光をかき消すように時雨が降るなか、老境の相模と気鋭の経信が、入道一品宮の屋敷で一瞬すれ違って歌言葉を交わした…そうした絵柄を思い浮かべても良いのだろうか。