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たつたやま こゆるほどに しぐれふる
57 あめふらば もみぢのかげに かくれつつ たつたのやまに やどりはてなむ
(「素性法師集」)
良因といふ寺にて、ふるの社のもみぢを見る
107 よしみねの 寺にきてこそ ちはやぶる ふるの社の もみぢをば見れ
(「相模集」)
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調べてみると、素性法師の57の歌は、実際に竜田山を越えて詠んだ歌であることが分かった。さらに具体的に、宇多上皇の宮滝御幸の一行とともに、大和国(宮滝)から摂津国(住吉社)に向かおうとして、898年10月28日、河内国(竜田山)を越えた際に詠んだ歌、と推定できることも分かった(『扶桑略紀』の「宮滝御幸記」など、詳細な記録が残っていることで、57の「たつたやま」の歌がそのまま現実のイメージを伴って立ち現われてくるように感じた)。
また、この素性法師の「たつたやま」越えが、偶然にも歌人相模と同じ10月という季節であることが気にかかった。もし歌人相模が初瀬参詣で竜田山を越えるルートを採ったのであれば、なぜ、素性法師と同じように竜田山の紅葉を詠むことをしなかったのか…相模は竜田山の紅葉を見ていなかったということなのだろうか…そんなことを思った。
すなわち、歌人相模の初瀬参詣7首のなかで、10月の紅葉を詠んだ歌は「良因といふ寺」での107、そして初瀬の坊の前で詠んだ109であって、景勝地であった竜田山を詠んだ歌はないからだ。しかも、107の歌では、「よしみねの寺にきてこそ…もみぢをば見れ」と強調している。
あたかも、在原業平が屏風絵に即して詠んだとされる「ちはやぶる かみよもきかず たつたがは からくれなゐに みづくくるとは」の歌を念頭に置いて、そうした仮想(屏風絵)の歌などではなく、実景をふまえた歌として、敢えて「よしみねの 寺にきてこそ ちはやぶる ふるの社の もみぢをば見れ」と詠んだのではないだろうか、との臆測が浮かんでしまう。