enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

2016.1.1

 2016年の新しい手帳を使い始めた。
 2015年の手帳をしまおうとしたけれど、鏡台の深い抽斗は昔の手帳でいっぱいになっていた。 
 たまった手帳を取り出してパラパラと開く。ところどころに新聞記事の小さな切り抜き。それらはどうも、2007年頃からの手帳に限っているようだった。
 今の住まいに移ったのが50代後半にさしかかった頃。自分の人生の時間をふりかえるようになったのがその頃だったのか。
 昔の自分が新聞記事から切り抜いた言葉や詩を書き写してみようと思った。
 その時に何を思って切り抜いたのか。今も強く共感する言葉もあれば、少し違うようなものもある。ただ、どれも、流れるままの自分を覚醒させる視点が記されていたのだと思う。

「美しいばら、さわって見る、
つやつやとつめたかった。
ばらは生きてる
どこまでも空を見ながら馳けていった、
なんていいきもち、でもゆめだった
ベッドを窓ぎわに寄せて、空を見た、
私は空の大きいのを忘れていた」

「今日は一日あかるくにぎやかな雪降りです
ひるすぎてから
わたくしのうちのまはりを
巨きな重いあしおとが行きすぎました
わたくしはそのたびごとに
もう一年も返事を書かないあなたがたづねてきたのだと
じぶんでじぶんに教へたのです
そしてまったく
それはあなたの またわれわれの足音でした
なぜならそれは
いっぱい積んだ梢の雪が
地面の雪に落ちるのでしたから」

「今家を持たぬものは遂に何の家も建てず、
今独りでいるものは長くそのままでいよう。
夜 目覚め、読み、長い手紙を書き 並木路を行きつ戻りつ、あちこち落ち着きなく小迷うだろう、木の葉の走る時。」

「私は人間よりも他の生き物のほうが、立派だと思います。蛇は蛇らしく、熊は熊らしく、欲も出さずに生きている。人間もそうならないと。山の中で考えたことは、そういうことでした。死ぬときは世間に、アッカンベーです」

そして、今朝の新聞から新しい記事(山崎正和氏の言葉)を切り抜き、2016年の手帳にはさんだ。
「…「こころ」の先生は自らを「淋(さむ)しい人間」と規定します。自分の内面に空虚を抱え、自己処罰の思いを抱いて生きる人間が「淋しい人間」です。単に孤独というのではなく、人と相寄っても、行動しても癒やされない、存在そのものに不安を抱いて生きる人間です。…」

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抽斗のなかの手帳にはさんであったもの…きっと、その時の私には意味があって残したモノたち。木の葉であり、紙であり、そんなモノたち。