『走湯山縁起』(巻第一~五)のなかの”権現像”を求めて、①~⑤(巻第一~二)の記事をたどってきた。
そして今、巻第三の記事をたどたどしく拾い読みしながら、”権現像”のイメージは、巻第三の成立までに、すでにある程度、図像化・可視化されていたのではないだろうか、と想像するようになった。
すなわち、巻第三の奥書「延喜四年 甲子 九月十八日。大教王護国院。定額僧阿闍梨 豪忠 記。」の通りであれば、10世紀初頭…延喜四年(904年)…以前に、”権現像”の造像例がすでに存在していて、その像容が人々に共有されていたように感じたのだ。
つまり、”欽明朝の550年”に”楠木の御衣木(みそぎ)”から造彫されたという「六尺二寸」の権現像や、天皇の綸旨によって臨時祭祀が行われた「神殿」の存在などについては、その時期の真否を別にすれば、実態の裏打ちがあるように思った。
その巻第三の後半には次の記述がある。
【註:巻第三の前半は嵯峨朝の「東寺大和尚」(弘法大師)の巡礼譚で始まるが、後半の仁明朝以降の記事は、山門系と思われる「賢安居士」「安然和尚」「隆保和尚」にまつわる話で構成されているようだ(私のたどたどしい読解が誤っていなければ…)。】
〔嵯峨朝:弘仁10年(819年)〕
⑥「又図‐会二権現本迹之真影一安‐置二根本堂一。」(巻第三)
〔仁明朝〕
⑦承和3年(836年):賢安居士
「浴レ奉‐造二本迹之御影一。(中略) 夢中異人示云。我是走湯権現也。本地千手千眼。(中略) 造‐彫二俗体本地両躯一。構二宝社一奉レ入二俗体一。造二堂閣一安-置二千手一也。」(巻第三)
元慶元年(877年):隆保和尚
「感二霊夢一云。六尺有余之優婆塞。帯二袈裟一持二念珠錫杖一告云。」(巻第三)
元慶二年(878年):隆保和尚
「安然大和尚門弟沙門隆保和尚。大和国葛下人。感二霊夢一云。六尺有余之優婆塞。帯二袈裟一持二念珠錫杖一告云。(中略) 依二神勅一勧‐進二諸人并国中庄官一。建‐立二伽藍一。挑二法灯一。設二享祭一。同二年戊戌造二堂社一安-置二本迹霊体一。」(巻第三)
⑥では「権現本迹之真影」の図絵が根本堂に安置されている。
⑦では「本迹之御影」が描かれていて、それをもとに俗体・本地の両体が造られ、それぞれ別々に堂閣・宝社に祀られている。また、霊夢に顕現した優婆塞の姿は、やはり「六尺有余」で「袈裟」を掛け、念珠と錫杖を持っている。このあり方は③と④に共通するイメージのようだ。⑦の時点では、現存の「男神立像」と異なり、「袈裟」をまとう姿であったのだろうか。
また、賢安居士の時点(836年)の俗体・本地の像と堂社、隆保和尚の時点(878年)の本迹霊体像と堂社というように、あまり時をおかずに造像・造営が繰り返されているのはなぜだろうか。
【註:⑥の前年の弘仁9年(818年)には関東地方で地震があり、⑦の元慶二年(878年)でも相模国・武蔵国などが大地震によって被害を受けている。同時期の伊豆国にも何かしらの被害・影響があったのでは、との想像も生まれる。】