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私の第三十四夜をつづります。

伊豆山神社の「男神立像」と『走湯山縁起』の”権現像”③


 『走湯山縁起』(巻第一~五)のなかの”権現像”を求めて、①~⑤(巻第一~二)の記事をたどってきた。
 そして今、巻第三の記事をたどたどしく拾い読みしながら、”権現像”のイメージは、巻第三の成立までに、すでにある程度、図像化・可視化されていたのではないだろうか、と想像するようになった。
 すなわち、巻第三の奥書「延喜四年 甲子 九月十八日。大教王護国院。定額僧阿闍梨 豪忠 記。」の通りであれば、10世紀初頭…延喜四年(904年)…以前に、”権現像”の造像例がすでに存在していて、その像容が人々に共有されていたように感じたのだ。
 つまり、”欽明朝の550年”に”楠木の御衣木(みそぎ)”から造彫されたという「六尺二寸」の権現像や、天皇の綸旨によって臨時祭祀が行われた「神殿」の存在などについては、その時期の真否を別にすれば、実態の裏打ちがあるように思った。
 
 その巻第三の後半には次の記述がある。
【註:巻第三の前半は嵯峨朝の「東寺大和尚」(弘法大師)の巡礼譚で始まるが、後半の仁明朝以降の記事は、山門系と思われる「賢安居士」「安然和尚」「隆保和尚」にまつわる話で構成されているようだ(私のたどたどしい読解が誤っていなければ…)。】

〔嵯峨朝:弘仁10年(819年)〕

⑥「又図‐会権現本迹之真影安‐置根本堂。」(巻第三)

〔仁明朝〕

承和3年(836年):賢安居士
 「浴奉‐造本迹之御影(中略) 夢中異人示云。我是走湯権現也。本地千手千眼(中略) 造‐彫俗体本地両躯。構宝社俗体。造堂閣安-置千手也。」(巻第三)

 元慶元年(877年):隆保和尚
 「感霊夢云。六尺有余之優婆塞袈裟念珠錫杖告云。」(巻第三)

 元慶二年(878年):隆保和尚
 「安然大和尚門弟沙門隆保和尚。大和国葛下人。霊夢云。六尺有余之優婆塞。帯袈裟念珠錫杖告云。(中略) 依神勅勧‐進諸人并国中庄官。建‐立伽藍。挑法灯。設享祭。同二年戊戌堂社安-置本迹霊体。」(巻第三)

 ⑥では「権現本迹之真影」の図絵が根本堂に置されている。
 
 ⑦では「本迹之御影」が描かれていて、それをもとに俗体・本地の両体が造られ、それぞれ別々に堂閣・宝社に祀られている。また、霊夢に顕現した優婆塞の姿は、やはり「六尺有余」で「袈裟」を掛け、念珠と錫杖を持っている。このあり方は③と④に共通するイメージのようだ。⑦の時点では、現存の「男神立像」と異なり、「袈裟」をまとう姿であったのだろうか。
 また、賢安居士の時点(836年)の俗体・本地の像と堂社、隆保和尚の時点(878年)の本迹霊体像と堂社というように、あまり時をおかずに造像・造営が繰り返されているのはなぜだろうか。
 
 【註:⑥の前年の弘仁9年(818年)には関東地方で地震があり、⑦の元慶二年(878年)でも相模国武蔵国などが大地震によって被害を受けている。同時期の伊豆国にも何かしらの被害・影響があったのでは、との想像も生まれる。】