≪想定外の道筋として歩いた「竹内峠」②≫
今回、竹内峠・穴虫峠を越える道筋について、ほとんど下調べをしないまま出かけてしまった。
旅から帰り、二上山麓周辺の古道について改めて調べるなかで、さまざまな勘違い・見過ごしをしていたことが分かった。事前の不勉強を後悔しつつ、積み残された宿題にわくわくする気持ちもある(このような気持ちを何と例えればよいのだろう…)。
再び、「関屋越え」の道筋を確かめる旅に出る日が待ち遠しい。
竹内峠の葛城市側に立つ「鶯の関趾」碑(葛城市):
肝心要の竹内峠は、国道脇のこの場所(国道166号線の高さ)ではなかった。
ともかくも、この竹内街道の石碑には
「我おもふ こころもつきず 行く春を 越さでもとめよ 鶯の関 康資王母 作」
と刻まれていた。
本来の開削以前の竹内峠跡は、道路標識の左上を走る旧道上に石碑が残されているらしい。
(「鶯の関趾」の碑の先に続く旧道を進むことなく、まさかの見過ごし。やれやれ。)
国道上に立つ国境の道標:
せめてもの記念となった木の道標。旧国名が示されているのが嬉しい。
鹿谷寺(ろくたんじ)跡(太子町):
十三重の塔の右手の柵内に小さな石窟がある。歩く途中で初めて知った石窟寺院跡(奈良時代と推定されている)。
この前日、入手した『竹内街道の成立』(葛城市博物館 2013年)では、「尾根上の凝灰岩の岩盤を削り、約20m四方の平坦面を作り出して」とある。
原初の景観が想像できないけれど、岩盤そのものに立ち向かって塔と石窟を掘り出した(彫り出した)こと、その信仰の篤さに驚く。
そして、ここでもホトトギスの声。思わず心のなかで叫ぶ。『なんていいんだ! かぐわしい緑! 自由だ!』
鹿谷寺跡の浅い石窟の壁に線彫りされた三尊坐像(太子町):
三尊像のうち、向かって左の像は傷むまま、失われつつあるように見えた。
野ざらしの現地での保存のむずかしさだろうか。
竹内峠(標高288m)に比べ、半分ほどの緩やかな峠。
途中、たった一人だけ、畑作業をしていた人に出会い、峠の位置を尋ねた。それほど、ピークがどこにあるのか分からなかった。車の往来が途絶えないけれど、どことなく淋しい峠越えだった。
信号「穴虫」付近に残る道標のお地蔵様(香芝市):
今なお、人々の往来…というより車の往来…を見守るように立つ。
銘文のうち、「右 大阪道 左 さかい道」が読み取れた。
もし歌人相模が「田尻越え」をしたのであれば、この地点を通過したのかもしれない(妄想の上の妄想…)。
今回、大きな課題を残した田尻峠。
交通量が多く、わずかに坂の向こうが見通せた瞬間の写真。
横大路と下ツ道の交点に建つ「八木札の辻交流館」(橿原市):
帰りの電車を待つ間、大和八木駅から「札の辻」に向かった。
今回の旅の最後の写真…まっすぐな横大路…ここは何も迷うことのない道。果たして、歌人相模はこの道を西に向かったのだろうか。果てしない、答えの無い問いかけだ。