enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

”5号の薔薇の絵”

 

昨日、次兄が菜園で収穫した立派なサトイモを届けてくれた。

車のドア越しのやり取りがつい長くなり、兄が最近読んだ本の話になった。
(次兄は日頃、私よりずっと多くの本を読んでいて、その本のことが時々話題になる。私はたいていそれらの本のことを知らない。)

今回は、乙川さんという人の小説だった。

兄はその粗筋をかいつまんで教えてくれた(自立した女性と長く関係を保ってきた男が、結局はその女性と別れようと心に決める…暮れはじめた人生の時間のなかでの男女間の波立ちを、淡々と静謐な筆致で描いている小説…粗筋を聴きながら、そんなふうに想像した)。

兄はその話のなかで「…男がね、奥さんが病気になっていて、その女性と別れることを決めるんだ…で、パリで”5号の薔薇の絵”を買ってその女性に贈るんだよ…」と話した(私は初め、その”ゴゴ-”が”5号”と分からずに聞き返したりした)。

そして、兄はその話の終わりに、「…その”5号の薔薇の絵”がね、何となく三岸節子の絵なんじゃないか?と思ったんだ。で読んでいったら、やっぱりそうだったんだよ…何となく三岸節子なんじゃないかって気がしたんだ…」と笑いながら付け足したのだった。

兄の話を聴き終わり、私は、その粗筋について感じたことをちょっと口にして、帰ってゆく兄の車を見送った。

そのあと、しばらく、次兄の”今の時間”が気になった。
兄は小さい頃に父を亡くして育った。大人になってから”大の親友”を突然の病気で失った。そして十数年前に妻を病気で失っている。大切な人を失うこと…兄には、そうした経験を経て”兄の今”があるのだ…そのことを思ったのだった。

次兄が小説の話を終えて、「…つまらない話になったな…」と少し笑ったけれど、どこか寂しそうだった…それを思い出したのだった。
兄にも、小説のように”5号の薔薇の絵”を贈るような存在があれば、その寂しさはまた違ったものになっただろうか…そんなことも思ったりした。

 

 

11月11日の月f:id:vgeruda:20211112200419j:plain

 

人魚姫の公園で(11月12日)f:id:vgeruda:20211112200604j:plain