enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

時と空間を共有するということ。

 

3日の夕方、外に出るとまだ明るい光が残っていた。
何となく月の気配を感じて東の空を見ると、そこにはやはり月がいたので『やぁ!』と声をかけた。

急に、買い物の前に海に行ってみようと思った。

浜に着くとヒサカキの匂いがして、”そういう季節”なのだと思い出した。

砂丘の上に立って、ぐるりと見渡す。
望む富士の肌合いは白い釉薬を流したかのように滑らかだったし、空では華やかな光が雲間を移ろって、今日という一日を足早にしめくくろうとしていた。

ついさっきまで白くやわらかな顔つきだった月は、今はもう、鮮やかにひきしまった輪郭で高く昇っている。

土曜日の浜辺には、海や富士や夕焼けを共有するつもりもなく共有するそれぞれの人々がいて、そういう浜辺はやはりかけがえのないものなのだった。

 

4日は東京に出かけ、友人とともに、久しぶりに音楽と暗がりに身を沈めることになった。
そのコンサートは北欧の作曲家たちの音楽で構成されていた(すべて、初めて聴くものばかりだった)。なかでも、シベリウス交響曲の曲想はあてどなく流れてゆくようで、クラシック音楽から縁遠い私には”つかみどころ”がなかった。
ビオラを弾き終わった友人と逢うと、まっさきに「疲れた…」とうめいたことに驚いた。そんなことは、これまでには無かったと思う。とても喉がかわき、おなかを空かせていたようでもあった。眼の前に運ばれてくるサラダもビールもピザもパスタもワインボトルもポテトもアイスクリームもコーヒーも次々と綺麗に消えてゆき、友人が音楽に向かい合って使い果たしたエネルギーの大きさを感じさせたのだった。)
こうして、この夜、友人たちと食べ物や飲み物を共有することで、2022年12月の一頁をみんなで”寄せ書き”したような気持ちになった。

 

12月3日の夕富士

 

12月3日の”海と夕焼け”

 

12月3日の夕月

 

 



12月4日のアンコール曲:
この日、バイオリニストでもあるというスヴェンセンの「ノルウェー狂詩曲 第2番」とアンコール曲(「去年、山で山羊の番をしていた」)には、希望や安らぎを感じた。
コンサートの3曲目は、スウェーデンのステンハンマルの「交響曲第2番」だった。プログラムには、「華美とは無縁の、謹厳実直な音楽」と評する作曲家自身の言葉が載っていたけれど、私は心地よく聴いた。心地よすぎたせいか、二度ほど瞬間的に意識を失い、椅子の背もたれで頭を打って目覚めた。たぶん、「謹厳実直な音楽」の骨格に支えられ、安心して意識を放擲してしまったのだと思う。