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私の第三十四夜をつづります。

美術館のラスター彩の器たち。

待ちに待った季節になった。

7日午後、「藤田嗣治の初期作品」を見ようと、平塚市美術館に出かけた。
20代前半の彼が描いた「おことさん」と「自画像」には、とても繊細でやわらかで丁寧な空気感と…何よりも、若者のまっすぐな眼を感じた(彼の作品を、黒田清輝はなぜ評価しなかったのだろう…?)

別の展示室では思いがけず、ラスター彩の愛らしい器の数々を楽しんだ(横山美術館名品展「明治・大正の輸出陶磁器 技巧から意匠へ」展)。

私の家にかつてあった唯一のラスター彩の器は、厚手でがっしりと重く、獣脚様の足がついたガラスの果物ボウルだった。
虹色に暗く輝く器面を埋めつくすように、薔薇の花や蕾や葉が深く刻み込まれ、それは美しい器だった(子どもの頃、飽かず眺めたラスター彩の器…しかし、大切に思いながら、結局は失ってしまうものもあるのだ…)。

そんな個人的な思い入れのあるラスター彩のガラス器に比べ、美術館で展示されていた器たちは、つやつやと滑らかで、いかにも華やかに愛らしく輝いていた。
(その器たちが作られたのは、まさしく、私の母が生まれ育った時代だった。このような夢みるような愛らしい器が生まれた時代〈大正10~昭和16年頃〉とは、どのような時代だったのだろう…と思った。時代は、時代が望むものを生み出すのなら、2020年代の今は…?とも思った。)

久しぶりに訪れた美術館で、ひととき、非日常の時間を旅することができた。
(11月11日には「藤田嗣治の初期作品」の講演会があるという。今回の展示について、貴重なお話が聴けることだろう。)

 

平塚市美術館の展示室で(横山美術館名品展「明治・大正の輸出陶磁器 技巧から意匠へ」展)


「親指姫」と「人魚姫」を思い出させるようなラスター彩花器
(水を張ったところを見てみたいけれど、人魚姫が喜びそうな小さな野の花などを飾るのだろうか?)