enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

メモ(5):「田」墨書土器とは?

 

2月がまたたく間に過ぎてしまった。
「田」墨書土器とは?…何のために誰が?…とウロウロしながら。

そのウロウロのなかで、土器などに墨書する行為が、仮に畿内から地方に伝わったものであるならば、「田」墨書土器についても、畿内及び畿内以東の遺跡からの出土数を見比べることで、何かしら読み取れることがあるかもしれないと思った。
そこで、現在の都道府県別の出土数(明治大学 日本古代学研究所「墨書土器・刻書土器データベース」)をもとに、次のような地図を作ってみた(便宜的に、北は宮城・山形まで、西は京都・大阪までの範囲の地図にした。なお、データベースは「田」一文字のほか、多文字の資料も含めて集成している)

【個人的map:「田」関連墨書・刻書の分布】
          参考資料:明治大学 日本古代学研究所「墨書土器・刻書土器データベース」

 

地図を作りながら、印象に残ったことをメモ書きしておく。

◆福島・宮城両県では、

〇「田」関連墨書文字瓦(福島:5点、宮城83点)のみで、「田」関連墨書土器が皆無であることが際立つ。
陸奥国政庁・多賀城が所在する宮城県からの出土が、8世紀を中心とする文字瓦(陽刻・押印)で占められる。
〇福島・宮城が「田」関連墨書土器の空白地域…データベース上ではゼロでも、実際には存在するのかもしれないが…であるのはなぜか?(なぜ、坂東とは異なる様相を示すのか? 宮城県福島県・愛知県などが、「田」関連墨書土器の空白地域…そもそも墨書土器そのものの空白地域?…であることをどうとらえればよいのか?)

◆神奈川県の近隣県では、

〇千葉県の出土数(全411点)は圧倒的で、文字瓦2点・墨書土器409点。
多量の墨書土器のほとんどは竪穴住居跡から出土。
「田」一文字の墨書土器の早い時期の資料は8世紀中(中頃? or  中葉?)
文字瓦2点は上総国分尼寺と真行寺廃寺(武射寺‐武射郡家周辺寺院)からそれぞれ1点出土。

群馬県(全162点)は、文字瓦79点国分寺国分尼寺や上植木廃寺・山王廃寺などから多く出土)・墨書土器83点。
文字瓦は「田」一文字のほか、「山田」・「薗田」・「八田」など二文字が多い。

〇栃木県の出土数(全93点)は、文字瓦44点(8世紀前半 国分寺官衙遺跡などから多く出土)・墨書土器49点。
墨書土器の時期は平安時代がほとんど。
文字瓦は「田」一文字のほか、「矢田」など2文字以上も多い。

茨城県(全92点)は、文字瓦8点(8世紀前半のみ 田谷廃寺跡といった官衙遺跡などから出土)・墨書土器84点。墨書土器のほとんどは竪穴住居跡から出土。
「田」一文字の墨書土器の早い資料は8世紀後半。
文字瓦は「田」を含むもの岡田」「津田」「根田」など)のみで、「田」一文字の資料はゼロ。

〇埼玉県(全107点)は、文字瓦8点・墨書土器99点。墨書土器は、北島遺跡、将監塚・古井戸遺跡など大規模集落跡や、豪族にかかわる可能性のある遺跡からの出土を含む。墨書土器の時期は平安時代が中心。
文字瓦は「田」一文字の資料が2点、6点が「若田部」・「山田」など2文字以上。

〇東京都(全76点)は、文字瓦11点・墨書土器65点。
墨書土器は国府関連遺跡や国分寺跡・国分尼寺跡から、文字瓦は国分寺関連遺跡からの出土が多い。
「田」一文字の墨書土器の早い時期の資料は8世紀前半、8世紀中頃。
文字瓦は「田」一文字の資料が2点、9点が「蒲田」・「長田」など2文字以上。

〇神奈川県(全108点)は、文字瓦2点・墨書土器106点。
墨書土器は、平塚市の真田・北金目遺跡群から42点、茅ケ崎市の北B遺跡から26点(報告書では25点)(計68点)、全体の6割が大住・高座両郡の水辺の遺跡から出土し、時期的には真田・北金目遺跡群(1区SC004水場遺構 8世紀中葉)が北B遺跡(1区1号遺物集中区/旧河道 9世紀中葉)に先行している。
文字瓦は多文字(”粘土”を意味する「石田」を含む)の2点小田原市・千代廃寺 表採)。

静岡県(全81点)は、墨書土器81点に対し文字瓦はゼロ。時期は奈良時代に集中。
出土地には、伊場遺跡・城山遺跡(敷地郡衙に関連)、御殿・二之宮遺跡遠江国府推定地)、坂尻遺跡遠江国佐野郡衙に関連)など、官衙関連遺跡が名を連ね、御殿・二之宮遺跡からは「田」一文字の墨書土器5点が出土。

京都府奈良県滋賀県大阪府の墨書土器で時期的に古い資料例として、次のようなものがある。

京都市木津川市馬場南遺跡:「田」奈良時代 墨書 土師器埦 流路)
*なお、「田」一文字の墨書土器とは性格が異なるかもしれないが、より古い資料として、日ノ岡堤谷須恵器窯跡(山科区)の
「奉田田加米」(飛鳥時代 刻書 須恵器平瓶 「加米」は「かめ」と読む?)の事例がある。

奈良市平城京:「田」2点奈良時代前半 墨書 須恵器皿・須恵器坏 平城宮外の官衙的施設…「大学寮」か?…の大規模土坑)

甲賀市(宮町遺跡 紫香楽宮跡推定地):「田」(8世紀中頃 墨書 須恵器坏 溝)

〇八尾市(池島・福万寺遺跡):「田」(8世紀中頃 墨書 土師器坏 弥生時代後期から水田経営が継続する遺跡) 

以上のように、”畿内”の「田」墨書土器の古い資料は、奈良時代前半あるいは8世紀中頃の時期となる。
とすれば、平塚市の真田・北金目遺跡群の「田」墨書土器(8世紀中葉)は古手の資料例と言えるだろうか?

◆こうして、一部の地域について大雑把に眺めてきて、ぼんやり浮かんできた個人的イメージは、

都城から地方へ墨書土器を使った祭祀的行為の様式が伝わってきた…というよりは、地方の人々が都城で墨書土器を用いた祭祀的行為をそれぞれ学び、都城から故郷に戻ったあと、地元でそれぞれ再現するに至った?
*「田」関連墨書土器の多様性というものは、人々の”学び”の多様性、”学びの再現目的”と”学びの再現様式”の多様性から生まれた?(千葉県などではかなり独自に展開し広がった?) 
*「田」関連墨書土器を使った祭祀的行為の主体者は、少なくとも、都城でそれらを学ぶことが可能な人々だった?(郡司階級や開発豪族など?)