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私の第三十四夜をつづります。

もう一人の歌人相模

 11世紀の歌人相模の道をあてどなくさ迷うなか、12世紀末(正治2年12月28日)に催された石清水若宮歌合に、”内裏相模”の名前があることを知った。しかもホトトギスを詠んだ歌であることに興味を惹かれた。
 
     あり明に 山ほととぎす 一こゑの なごりをのこす よこ雲の空     相模  (石清水若宮歌合)
 
 11世紀の歌人相模の『相模集』では、
 
     ほとゝきす みやまにたかく いのる事 なるときこゆる こゑをきかはや
     ほとゝきす なくへきつまは わかやとの はなたち花の にほひなりけり
     まちわひて いまうちふせは ほとゝきす あかつきかたの そらになくなり
     ほとゝきす 人にくからぬ よにすまは こゑはかりをは おしまさらなむ 
 
     きかてたゝ ねなましものを ほとゝきす なか/\なりや よはのひとこゑ  
 
     なきかへる しての山地の ほとゝきす うき世にまよふ われをいさなへ
 
 歌人相模が詠んだホトトギスの歌の全てを知るよしもないが、『相模集』のなかの6首(権現僧の作とされる3首を除いて)のいずれからも、詠み人の心の痛みが伝わってくる。ホトトギスの鋭い啼き声が、そのまま歌人相模の心の痛みと響きあっているように思うのだ。
 そして、この歌人相模から、150年以上後れて現れた”内裏相模”とは誰なのか。”内裏相模”がホトトギスの歌を詠んだ時、平安末期の歌人相模の存在を意識したのだろうか。
 ”相模”の国名がつくこと、内裏に仕える女房であるらしいことから、11世紀前半の歌人相模と同様に、1200年前後に相模守であった人物の妻ではなかったろうか、と想像がふくらむ。
 そこで、その年代に相当する相模守を調べると、「源(大内)惟義」という人物(源頼義の玄孫、義光の曾孫)が浮かび上がった。そして、その妻は藤原秀忠女とされている。”内裏相模”は、この源惟義の妻であった人なのだろうか。あてどなく、とりとめなく思いを巡らしている。