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私の第三十四夜をつづります。

相模国府域で11世紀代に継続する竪穴建物群

 28日の平塚市遺跡調査・研究発表会のなかで、相模国府域の天神前遺跡第16地点の報告があった。
 この第16地点の北100mに位置する第8地点(掘立柱建物3棟、竪穴建物36軒、土壙墓5基など)では、「郡厨」墨書土器(8世紀後半)、「国厨」墨書土器(9世紀中葉)が出土し、『平塚市史』において「…本地区の住居の出現時期は 8世紀中葉から 終末は11世紀前半となり、約300年の存続期間と捉えることができる。この間の大きな転換期は…9世紀中葉で 以後住居が減少していくが、逆に11世紀代の土壙墓が占拠するようになり…この変化は 国府の衰退していく様子を物語るものと考えられる」と分析されている。 
 
 今回の第16地点の報告でも、古代の遺構として竪穴建物12軒、墓坑1基などが検出され、「本地点は周辺地点からやや遅れた9世紀中頃から集落が形成され、11世紀後半頃まで存在する」とのことだった。
 
 相模国府域で11世紀後半まで集落が続く遺跡としては、天神前遺跡のほかに、六ノ域遺跡・高林寺遺跡・坪ノ内遺跡・諏訪前A遺跡があるが、いずれも相模国府域東半部の有数の遺跡群だ。さらに、このなかで、10世紀代も一定数の竪穴建物軒数を保ちながら、11世紀へと継続していく遺跡の一番手が、六ノ域遺跡と高林寺遺跡、次いで諏訪前A遺跡・天神前遺跡となる。
 国府域西半部での有数の遺跡である構之内遺跡・山王B遺跡・神明久保遺跡などが、9世紀後半~10世紀前半を最盛期として、10世紀後半以降、急速に衰退する傾向との違いを見せている。
(注:坪ノ内遺跡は9世紀前葉での相模国庁廃絶後、10世紀前半代に空白期をはさみ、10世紀後半以降、再び細々と竪穴建物が続くようだ。)
 
 相模国庁の廃絶後、9世紀中葉以降の国庁機能を担った施設はどこにあるのか。
 また、11世紀前半、歌人相模の夫・大江公資が政務を執った施設・館はどこにあるのか。
 これらを推定するためにも、今回の天神前遺跡第16地点の報告は大変興味深かった。なぜなら、11世紀後半まで連綿と継続する遺跡群の中心部に、それらの建物が置かれていると推定するからだ。そして、その位置は、八幡宮が当初置かれた位置とも係わっていると想像している。