enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

8月から、「はてなブログ」に移行します。

2011年3月21日からの日々、私のとりとめないつぶやきを、「enonaiehon」は受けとめてくれました。
また、私は「enonaiehon」のもっとも身近な読者になりました。
 
今、「enonaiehon」は、私にとって大切な友人の一人です。
そして、これからは、「はてなブログ」という新しい場所で、「enonaiehon」と対話してみたいと思います。
 
これまで、私とともに、「enonaiehon 」を読んでくださり、本当にありがとうございました。
また、素敵なコメントをたくさん残してくださったH氏には、感謝の言葉しかありません。
「enonaiehon」とともに、みなさまに、心からお礼申し上げます。
 
これから、移行手続きに入ります。
上手くできるかどうか、不安ですが…。
(今朝、移行手続きを思い立った時、なぜか、B.ストライサンドの ♪ ピープル!♪ の歌声が、頭のなかで鳴り響きました。そして、実際に彼女の「People」を聴いてみました。なつかしく、また、励まされました。)
 

「平塚城跡 第2地点」の調査報告を聞いて

 


4月20日、旅から帰ると、その日は、「平塚城跡 第2地点」の現地説明会が開催された日だった。
 
数日後、資料だけでもと、電話をすると、現場(平塚農業高校)まで取りに来れますか?とのことだった。
細かい雨が降るなか、ちょっと長めの散歩のつもりで出かけることにした。
 
校門前に着き、担当者の方に電話をかける(緊張)。
ほどなく担当者の方が来られて、資料を無事にいただくことができた(恐縮)。
すると、ちょっと現場近くまで寄ってみますか?という思いがけない言葉。
担当者の方は、限られた作業日程の時間を割いて、調査成果の概略を説明してくださった(さらに恐縮)。
 
「平塚城跡 第2地点」は、相模国庁(第3砂丘列の東端)から南西約3.5kmの砂州砂丘上(第5砂丘列の西端)に位置する。
(遺跡から西へ約700mほど進めば、花水川〔金目川下流〕が相模湾へと南流している。)
 
この「平塚城跡」の立地については、大住郡と余綾郡とを結ぶルート(「相模国庁」~「平塚城跡」~花水川渡河~「出縄砦跡」~不動川沿い~余綾郡)上に載る地点であることに興味を感じた。
:このルートは、『神奈川の古代道』(藤沢市教育委員会 1997年)で示された、“『延喜式』による復原駅路”に基づいている。】

また、そのルート上の地点で、奈良・平安時代の集落が確認されたこと、特殊な遺物である石銙丸鞆**や緑釉陶器が出土したことなどは、「平塚城跡」の性格を考えるうえで貴重な成果であるように思った。
**石銙丸鞆の出土については、後日、「神奈川県発掘調査成果発表会2019」の発表要旨のなかで知った。なお、1988年に調査された「平塚城跡 第1地点」では、平瓦や「猪□」墨書土器などを出土している。)

こうして「平塚城跡 第2地点」の現説資料をいただいたあと、7月27日の「神奈川県発掘調査成果発表会2019」で、改めてその発表を聞く機会があった。
当日の発表要旨では、現説後の新たな調査成果を盛り込んだ遺構配置図(古墳時代後期~奈良・平安時代)も示されていた。

この新たな成果で気になったのは、詳細は不明ながら、東西方向に斜めに横切る道路状遺構(?)…隣接する溝状遺構と平行(ともに東に70度近くふれている)…が検出されていることだった。
幅2m(?)ほどの規模ではありながらも、砂丘列の向きに沿うような角度で、古代の道路状遺構(?)が現れたとすれば、”大住郡と余綾郡とを結ぶルート”の補強材料の一つになるように感じた。

そこで、まずは、今回の「平塚城跡」の成果をきっかけとして、国府域から余綾郡へ南西に向かう”『延喜式』による復原駅路”ルート図をもとに、自分なりに”余綾郡に向かう南西ルート図”を作ってみようと思った。
駅路に匹敵するような道路状遺構が検出されたわけでもなく、現時点では不確定の限られた情報をもとに作るならば、いつものように、妄想上の創作図に終わるはずだ…。)
 
一方、私の妄想とは異なり、平塚市で検出された道路状遺構として、国府域内を東西に横切り、西北西に向かうと想定される、幅9m前後の「古代東海道」、という考古学的な成果がすでにはっきりと出ている。
ただ、「箕輪駅家」に関する考古学的成果は、どこにも出ていない(推定地が示されている段階にある)。
試行錯誤の作業を楽しみながら、次のような”余綾郡に向かう南西ルート図”を作ってはみたが、やはり「箕輪駅家」の位置は謎のままだ。いつの日か、aかbか、あるいは全く別の場所で「箕輪駅家」の”物証”が明らかにされるまで、妄想を深めたいと思う。

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国府域の外(南西部)に連なる遺跡~ 
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  ■ 奈良~平安時代の遺跡
    <遺跡№55 「平塚城跡」(第1・第2地点)のみ、↑でその位置を示した>

―――――――  〔『延喜式』による復原駅路〕のルート:
             相模国の東から、国府外へ南西に進み、
             箕輪駅家推定地bで示す地点経て、余綾郡に向かう想定
             (『神奈川の古代道』で示されたルートに基づいている)

==―――==  古代東海道:
             国府を東西に横切り、国府外で西北西に進み、
             箕輪駅家推定地aで示す地点〔本宿B遺跡〕を経て、余綾郡に向かう想定

   石銙丸鞆
  U  平 瓦
  ▼  緑釉陶器
国府域から離れた、遺跡分布も粗くなってゆく地域のなかで、「平塚城跡」や「出縄砦跡」が特殊な遺物を出土していることを示した>
_________________________________________
 
【ベースの地図及び主な参考資料など】
・明治期の2万分の1地形図
・『神奈川県埋蔵文化財調査報告書38』(神奈川県教育委員会 1996年)他
・『神奈川の古代道』(藤沢市教育委員会 1997年)
・『秋期特別展「掘り起こされた平塚Ⅲ」 遺跡が語る地域の歴史』(平塚市博物館 2004年)
・『復元!古代都市平塚 ~相模国府を探る~』 (ふるさと歴史シンポジウム実行委員会 2006年)
・「平塚城跡 第2地点」現地説明会資料及び「神奈川県発掘調査成果発表会2019」発表要旨



一つの選挙が終わる…そして青空は?

2019年7月21日。曇り空。
近くの投票所に居合わせた投票者は3人だった。
投票所には、どこか青空に向かうような気持ちで出かけたので、はぐらかされたように感じた。

今回、友人たちは期日前投票を済ませていた。
先日コメントをくださった方も、やはり期日前投票をされたという。
(コメント2通を拝見しました。いつも、ありがとうございます。比例区は私も同じ1票を投じました。選挙区は戦略的?1票となるよう祈りつつ投票しました。)

“How many times must a man look up before he can see the sky?”

若い頃、”答えは吹く風の中にある…”という歌詞に、さして違和感はなかった。
風に吹かれた心地良さを感じ、満足していた。

自分が”晩年”という時期に入った今は違う。
心地良く吹く風のなかに、知りたい答えが見つかることなどない…今は分かっている。

自分の青空を絶対手に入れる。
青空が広がる日を信じる。
あきらめない。
そんな思いで、投票所を出た。


街頭演説のトップランナー

 2019年の参院選挙期間中の今、発散することのできない怒りがふつふつと溜まる。
 最高権力者の街頭演説に対し、抗議の野次を飛ばした市民が、多数の警官に排除されてゆく…札幌で、次は大津で…そんな報道が続く今。
 野次を飛ばした場所から、警察によって力づくで排除された無力の存在が、もし私だったなら、と思う。
 2019年夏…そんな場面をたやすく想像できる状況になってしまっている。
 
 怒りと恐怖を抱えつつ、山本太郎氏の街頭演説の動画を見る。
(自由に歩き回れる状態であれば、リアルタイムで彼の街頭演説を聴きたかった。)

 彼の街頭演説は”生きもの”として感じることができる。
 肉体を持つ言葉。ほとばしるジェスチャー
 山本太郎という血肉のエネルギーがそこで燃え盛っているのを感じ取ることができる。
 1時間近く、あるいは2時間近くに及ぶ演説でも、私の乏しい集中力がそがれることはない。
 かつて、宗教者・布教者の辻説法に聴き入った人々も、こうして心を動かされたのかもしれない…などと思う。
 
 不思議だ。山本太郎は今、彼こそが街頭演説のトップランナーに位置するかのように走っている。
 7月21日投開票日に、山本太郎のゴールの先に待っているものは何?

 

歩いて15分の場所

13日、曇り空のなか、往復30分の散歩に出た。

今日から30分の散歩だ…海岸通りを海に向かって歩いてみよう…。
うきうきとした散歩気分はつかのまで、いったん道路に出ると緊張が始まる。
一歩一歩、確かめ確かめ歩こうとしている。どうか、痛みませんように…と。

そんな私の不安を嗤うように、ふいにズキンと短い痛みが走る。
そのたびに、心臓もビクンと反応する。些細な痛みなのに、実に小心な…。

小心者はびくびくしながらも、いつもよりは早めに足を運ぶ。
15分の短い時間のなかで、少しでも遠くまで行き着けるようにと。実に貧乏性な…。

目標にしていた教会に着く。携帯の時刻を確かめると、15分の制限時間より数分早めだった。
『よっし!』と思う。実に単純な…。

こうして、これから時間・距離を伸ばしてゆけば、その先には海があるのだ。
早く良くなって、海まで歩きたいと思う。実にささやかな…。

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海岸通りの教会で


2019.7.12

 足を痛め、治療を始めてからほぼ1ヶ月。
 今日の治療のなかで、『明日から一日30分…行き帰りで30分…歩くようにしてみてください』と言われた。ちょっとだけ自由の範囲が広がったようで嬉しくなった。
 片道15分といっても、ふだんの何倍も時間をかけて歩いている今、いったいどこまで行けるのだろう。海までは、ふだんなら往復50分ほど。今は、片道1時間はかかりそうな気がする。すべての人…老齢の人も含めて…が私を追い抜いてゆく今では。
 明日からは、とりあえず、途中の教会までを目指して”散歩”に出ようと思った。もうちょっと足を伸ばせば、門の脇にクチナシの木のある家に行き着くけれど、もう、咲き終わっている頃だろうな…。歩きたい、なんの苦も無く、ふつうに、ふつうに。今はただそれだけだ。

梅雨に咲くバラ①(人魚姫の公園で)
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梅雨に咲くバラ②(人魚姫の公園で)
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『新聞記者』についてのコメント、ありがとうございます。

 映画はいつも一人で観るので、その感想もいつも一人で反芻するだけなのですが、今回いただいたコメントを読んで初めて、ラストで映し出された杉原さんの唇の動き…言葉…を知ることができました。
(自分には、他者の心を読み取る力が足りない…そのことを自覚していましたが、こんなところにも影響するものなのですね。)
 
 思えば、杉原さんはそれまでも、何回もその言葉を発していました。
 杉原さんの重い葛藤が、結局は、あの短い言葉に行き着くということ、あの言葉は、『新聞記者』の最後の重要なメッセージだということを、遅ればせながら納得できました。
 
 この時期に、この映画が制作され、封切られたこと…映画を観終わったあとに起こったあの拍手には、そのことの感動も含められていたのかもしれません。

 『新聞記者』は、今後、TVで放映されることはないように想像するのですが、一日でも長く上映され続けること、制作されたことの意味が、長く確認され続けることを願っています。
(21世紀初頭の日本において、長期安定を誇る政権が、その権力を稀有な形でほしいままにし、倫理的に逸脱し続けたこと。そのことが人々・社会に残した浅からぬ傷痕を、視覚的に、時を移さずに記録した映画として。)