enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

法隆寺金堂壁画の”うねる瞼”

 

今春見学するのを楽しみにしていた「法隆寺金堂壁画と百済観音」展。
結局、コロナ禍で見学の機会を失い、百済観音様は法隆寺にお帰りになった。

その見学の代わりにしようと、図録『特別展 法隆寺金堂壁画と百済観音像』(朝日新聞社 2020年)を取り寄せた。

そもそも、私の特別展への期待は、”百済観音像”を東京で拝すること(東京でお姿を拝するのは、1997年の冬以来二度目となるはずだった)…その一つに絞られていた。
しかし、実際に身近に図録を眺めてみて、図録の大半を占める”法隆寺金堂壁画”に関しての内容にも惹きつけられた(自分でも意外だった)。

まず、巻頭の「大英博物館に所蔵された法隆寺ー金堂壁画と百済観音の複製の意義について」(彬子女王)を読み、次に巻末の「百済観音像誕生の謎(三田覚之)を読んだ。どちらの論考も、初めて知る要素が散りばめられていて新鮮だった。
(ことに、三田覚之氏による百済観音の造立背景についての考察には、グイと心をつかまれた)。

 

そしてまた、図録を手にして最初に眼を見張ったのが、表紙を飾る観音様の顔だった。それは、昔の10円切手などで見知っていたはずの図柄だったけれど、今回改めて気がついたのは、その”上瞼”の描線だった。

その”上瞼”の描線は、あの”うねる瞼”を思わせた。
鶴見大学仏教美術の講座で教わった、あの”うねる瞼”に通じるニュアンスが、そこにもあった。つい、ワクワクした気持ちになった。

黒石寺の薬師如来像の”うねる瞼”、またミャンマーの寺院で撮った仏様たちの”うねる瞼”に通じるニュアンスが、法隆寺金堂壁画(第六号壁)の観音菩薩像の眼にも描かれていた。

内面に没入しきって、魂が抜け出てしまったことにも気がついていないような半眼。
焦点を結ばない宙に浮いたような視線、生命の光を消失しつつあるような物憂げな瞳。
そうした半眼をより強調するための”うねる瞼”…そう感じた。

でも、なぜだろう?

なぜ、この半眼が、この”うねる瞼”が必要だったのだろう?
(「法隆寺金堂壁画 ガラス原版 デジタルビューア ウェブサイト」で、他の壁画の像の上瞼を拡大して見ても、像の全てが”うねる瞼”のニュアンスを湛えているわけではなかった。ことに一号壁の観音菩薩像の眼は”うねる瞼”を持たず、むしろ知的な光を感じさせるものだ。当時、”うねる瞼”を描くことが、一様に守るべき「決まり事」ではなかったようだ。)

当時、第六号壁の観音菩薩像を描いた工人は、その視線の表情を伝え残すには、その”うねる瞼”の描線を選ぶしかなかったとして、ではなぜ、その視線の表情・ニュアンスを必要としたのだろう? 

”うねる瞼”によって、何を伝え残したかったのだろう?

私にその答えが分かるはずもないけれど、”うねる瞼”は問いかけをやめない。

 

その後も、時折、図録を開き、写真・図版を眺めたり、解説頁の拾い読みを続けている。
私のそばで詳細な解説付きの常設展が開催されている…図録はそんな場所だ。
(これは、コロナ禍転じての”ささやかな”福”かもしれない。もし、実際に特別展を見学していたのなら、そのまま満足し、重くかさばる図録に手が伸びなかったと思うから。)

 

【”うねる瞼”:過去の記事で掲載した写真から】

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黒石寺の薬師如来像                  スラマニ寺院の壁画(バガン
〔「みちのくの仏像」展のチケットから〕


法隆寺金堂壁画の”うねる瞼”:図録『特別展 法隆寺金堂壁画と百済観音像』(朝日新聞社 2020年)から】

左:表紙の一部               右:表紙の”うねる瞼”を強調してトレース

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【昔の10円切手】”うねる瞼”のニュアンスは読み取りにくい。

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百済観音展のチラシから(1997年に東京で開催)~

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衝撃的な展示に圧倒された。
その時の衝撃が今も忘れられず、私のなかで美化され続けている。

 

 

 

 

”千尋の顔をした資本主義”…そして”日・韓・台・香の合従策”…。

 

今朝、眺めていたツイートの最後にこうあった。

「…人間の顔のない資本主義から人間の顔をした福祉型資本主義へ。2分動画見てください。」

で、短い動画を見てみる。ふーむ、と思った。
動画の中の白いボードには、話の概要と、その横に『千と千尋の神隠し』の”カオナシ”と”千尋”の顔が描かれていた。そして、短い解説が進行し、私は、あっという間に話者の術中にはまっていた(こんなふうにジブリの絵柄を使うのはずるいと思いつつ)。

 

夕方、海に出かけた。
(昨日の夕方、買い物帰りにマスクを外した時、潮の香りに気がついた。海を渡る風に乗ってきた…遠い記憶を運ぶ香りだった。)

曇り空の今日、浜辺には、ぽつり、ぽつりと、”それぞれの海”を楽しむ人々の姿があった。
私も、しばし、足元に寄る波の音、波消しブロック上の海鳥たちが啼きかわす声を聴いた。

背中に海風を感じながら、また巣ごもりの家へと戻った。

夜になって、今度は内田樹氏のインタビュー記事を読んだ。ふむふむ、と思った。
現在のアメリカと、コロナ以後の日本の分析(氏は、トランプ政権のもと、BLM運動によって深まるアメリカ社会の分断の様相を、”南北戦争の対立スキーム”として読み取り、また、コロナ以後の日本の生存戦略は”日・韓・台・香の合従策”にあると主張する)を、私はまたもや、するすると飲み込んだ(氏が提示するイメージは、いつもシンプルで、しかも飲み込みやすく調理されているのだ)。

 

千尋の顔をした資本主義…か。きっと、真っすぐな心を持った人間の顔なんだろうな…そんな世界に変わらなければ…本当に変われるだろうか…』

『日・韓・台・香の合従策…か。文字面では理解できるけれど、現実的なイメージより、ひどく困難そうな道のりを先に想像してしまう…失敗できない怖さというか。新しい道へと踏み出すには勇気がいりそう…』

もやもやとしていると、野鳥時計が「仏・法・僧…」「仏・法・僧…」と時を告げる。

そのコノハズクの淡々とした声が、私の今日のもやもやに区切りをつける。

 

 

f:id:vgeruda:20200721232552j:plain7月21日の海

f:id:vgeruda:20200721232637j:plain波上の父・子

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ハマゴウ                持ち主とはぐれてしまった靴(歩道橋で)

 

 

”野鳥の時計”

 

長雨の日々、澱んだ空気を震わせて鳥がさえずる。

その”野鳥の時計”を壁に掛けてから、1時間ごとに美しい啼き声が響くようになった。
巣ごもりの部屋が、その瞬間、戦場ヶ原や伊豆高原の林にまぎれこむ。

今は夏鳥たちが訪れる。
部屋に朝の光が届くと、アカショウビンもやって来る。
夜のしじまを切り裂くようにホトトギスが啼き渡る。
日々移り変わる報道に心騒ぐ時、サンコウチョウの♪ホイホイホイ♪という明るい掛け声に励まされる。
草津の霧のなかで初めて出会い、その声は聴くことができなかったクロジも、惜しみなく歌ってくれる。

 

こうして、”野鳥の時計”は、『オルフェ』の映画で憧れた鏡の入り口のように、私を野鳥の棲む林へと誘って、向こうに広がる世界のゆらめく木洩れ日を感じさせてくれた。

 

今朝は、久しぶりに薄青色の空が広がり、”野鳥時計”の部屋にも光が射し込んだ。

長雨のトンネルを抜けた先、夏鳥たちの啼き声は、もっと明るく軽やかに響くのだろうか。

 

長雨に咲くバラ(7月17日 人魚姫の公園で)

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「まあ いいか」を読んで。

 

夕方になって街に出ると、駅前で2020年豪雨災害」の救援募金が行われていた。

2011年の大地震と大津波の生々しい記憶も消えないなかで、この数年、大雨や台風などによる圧倒的な破壊が容赦なく繰り返されている。そのたびに人々は打ちのめされ、打ちひしがれる。そして、そのたびに人々は何度でも力をふりしぼって立ち上がらなくてはならないのだ。

そこに加えて、今年はコロナ禍が重なっている。被災地の人々はマスクも消毒もままならないどころか、日常そのものを奪われ、悲しみや不安と疲労のさなかにあるのだ。
報道番組で、家族とともに泥出しを手伝う少年の小さな体、その汚れた手足を眼にする。自分にできることを黙々と果たす子どもの姿は頼もしく、切ないものだった。
それにひきかえて、我が身にかまけているだけの自分の姿が否応なく見えてくる。いつものように、”あるべき姿の自分”と”情けない姿の現実の自分”との撞着で落ち着かない気分になってゆく。

そんな時、夕刊のコラムを読んで、少し気持ちが落ち着く。
その大竹しのぶさんの連載エッセイ「まあ いいか」には、いつもぬくもりを感じて励まされてきた。そして今回も、愚図ついた気持ちはそのままに、「
まあ いいかな…?」と思えてきたのだ。

果たして、とりあえず「まあ いいか」とやり過ごす。そうしてしまっていいものかどうかわからない。

きっと、この先も何度も繰り返す「まあ いいか」。それに救われ続けていいものかどうかわからない。

それでも、まずは、自分にもできること、それをしようと思う。

 

梅雨の晴れ間の空(7月9日)

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梅雨の晴れ間の赤い実

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「かやり火も ふせげと思ふを こぞの夏 煙のなかに たちぞさりにし」②

【248・349・453の3首】

『相模集全釈』(風間書房 1991)から_____________________


~中夏~
248  したにのみ くゆる我が身は かやり火の 煙ばかりを こととやは見し

(悶々とするばかりで、心がふさいで晴れない我が身は、蚊遣火のくすぶる煙だけを関係のないものと思っていたでしょうか。私と同じに思われました。)


~中夏~
349  したにのみ くゆる思ひは かやり火の 煙をよそに 思はざらなむ

(心の中の悩みを、ひそかに悔いる思いは、くすぶる蚊遣火の煙を無縁のものと思わないでほしい。両者は同じ「くゆる火」なのだから。)


~六月~
453  かやり火も ふせげと思ふを こぞの夏 煙のなかに たちぞさりにし

(私の胸のうちにくすぶる恋の火も、夫の愛情によって防いでほしいと思うのに、それどころか去年の夏、あの人は立ちのぼる蚊遣火の煙とともに、私のもとから立ち去ってしまったのですよ。)
_______________________________________
走湯権現奉納百首及びその贈答歌」(222~524:欠首・重複あり。序歌3首・跋歌2首を含む)は、
a:歌人相模の奉納歌(222~319)
b:権現(僧)からの返し(321~421)
c:歌人相模の更なる奉納歌(425~523)
の三つの歌群から成り立つ。
また、それぞれが、20部立て・各5首(計100首)という共通形式で統一され(欠首・重複あり)、a(正月に奉納)→b(その年の4月15日に返しが届く)→c(翌年の夏の帰京前に再び奉納)という時間軸のなかでまとめられている。

つまり、a・b・Cの歌群が、”時間の流れ”として連なると同時に、各100首のそれぞれも、個別にa ⇔ b ⇔ cという”贈答歌の流れ”として連なることになる。
そして、その”贈答歌の流れ”には、起(a) ⇔ 承(b) ⇔ 転(c)という有機的な捻りが加わるとともに、bの歌群の作者を走湯権現(僧)と位置づけることで、聖俗集合?の物語世界を織りなすような様相を見せる。
こうした個人歌集の枠を超えるような構成のなかで、248・349・453の3首は、それぞれ「248(1024年正月まで)」→「349(1024年4月15日まで)」→「453(1025年夏の帰京前まで)」の”時間の流れ”と、「248 ⇔ 349 ⇔ 453」の”贈答歌の流れ”に沿うものであり、「起(248) ⇔ 承(349) ⇔ 転(453)」の捻りを加えながら有機的に結びつき、一体化している。
このような「走湯権現奉納百首及びその贈答歌」の特異な世界が織りなされた場所が、1020年代の東国の片隅(平塚?)であったのかと思うと、一千年後の平塚で暮らす市民として少し複雑な気持ちになる。
相模国府とは、歌人相模にとってどのような場所であったのだろうか? 歌人相模は、その晩年、相模国府で過ごした4年間について、ほろ苦くも懐かしく思い出してくれただろうか?)

 

 以上のような復習をしながら、
「453 かやり火も ふせげと思ふを こぞの夏 煙のなかに たちぞさりにし」
の歌で、今回改めて気になったのが、下の句「こぞの夏 煙のなかに たちぞさりにし」だった。
これら一連の言葉に引っ掛かりを感じた末にたどり着いた妄想的結論を示すと、次のようなものになる。

 

「たちぞさりにし」の語に、「館(たち)ぞ去りにし」の意味が含まれるのではないか?

 もし、このような”掛詞”的な想定が許されるならば、

「火」・「煙」についても、「(館の)火災」**のイメージを重ねているように感じられる。
(ただし、「火」・「煙」の語に、作者の個人的体験としての「(館の)火災」のイメージを重ねることは、あまりにも作者の個人的背景に踏み込んだうがった読み方なのかもしれない。”国司館火災”の時期・事情を前提としなければ、読み取りようがない解釈なのだから…。)

(以上の言い訳をふまえた解釈として)453の歌意は、
「私の胸のうちにくすぶる恋の火も、館の火災も、防いでほしいと思うのに、それどころか去年の夏、あの人は立ちのぼる蚊遣火の煙と、立ちのぼる館の火災の煙とともに、私のもとから立ち去ってしまったのですよ。」となる。

さらには、「館国司館と想定)」の火災の時期は「去年の夏」に限定されることになる。


**
相模国国司の火災については、これまでもあれこれと思い巡らしてきた。
(enonaiehon 2013-09-05 【相模集-由無言5 「さてそのとし館の焼けにしかば」と「焼け野の野べのつぼすみれ」】など。

 

ここで改めて、「走湯権現奉納百首及びその贈答歌」の中で記された次の詞書(歌群bとcの間に位置する)を掲げてみる。

 

『相模集全釈』(風間書房 1991)から_____________________

さて その年 館(たち)の焼けにしかば、「かかる事の さうし〔註:冊子〕して、必ずかかる事なむある。穢らはしきほどにおのづから」と人の言ひしかば、あやしく本意(ほい)なくて、上(のぼ)るべきほど近くなりて例の僧にやりし。これよりも序のやうなることあれど、さかしう にくければ書かず。
______________________________________

この詞書は、「館国司館と想定)」の火災が起きたのは、「その年」(歌群bとcの間の詞書ということから、1024年4月後半~1024年末までと想定)であることを示している。
そして、453の歌の下の句について、「去年の夏(館の火災の)煙のなかに 館ぞ去りにし」と解釈するのであれば、国司館の火災時期を「1024年の夏」と特定できることになる。

それにしても、453の「かやり火」の歌において、歌人相模は、なぜ「夏」を具体的に「こぞの夏」と限定したのだろうか? 453の歌について、研究者が「歌意に判然としないところもある」とする理由も、その下の句の唐突さにあるのではないか?

今回、その答えとして私が思いついたのは、詞書にも記された”国司館火災”という、作者にとって忘れがたい出来事だった。

私は、歌人相模が、248・349の歌詞(「くゆる我が身」・「くゆる思ひ」・「かやり火」・「煙」)に通底する恋心…単なる仮想なのか、現実に定頼などを想定しているのかは不明…の流れから大きく転じて、”夫・公資への恨みや嫉妬心”をくすぶらせるかのような下の句を詠んだ背景として、349の権現(僧)からの返歌に対する反発だけでなく、”去年の夏”に起きた”国司館火災”に際しての夫・公資の冷たい振る舞いの記憶が、思わず甦ったためではないだろうか?と想像している。
(夫・公資が赴任先の相模国で愛人をなし、妻・相模をないがしろにしている様子が、230・433の歌***からもうかがえる。大江公資は、1024年夏の国司館火災をきっかけに、完全に妻・相模のもとを離れて、愛人宅を遍歴する生活を始めたのではないだろうか?)

 

***
233 若草を こめてしめたる 春の野に 我よりほかの すみれ摘ますな
433 もえまさる 焼け野の野べの つぼすみれ 摘む人絶えず ありとこそ聞け 

 

以上、「館(たち)」という語句についてのこだわりが再燃し、新たな妄想を巡らすこととなった。
そんな妄想でも、相模国下向後の歌人相模の満たされぬ思い・嘆き、願いごとを歌群として成立・昇華させた「走湯権現奉納百首及びその贈答歌」には、まだまだ妄想をふくらませる余地が残されていることが分かった。
虚しく過ぎるコロナ禍と長雨の時間も、物想う(妄想)時間に変えて、しのいでゆくことができれば嬉しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「かやり火も ふせげと思ふを こぞの夏 煙のなかに たちぞさりにし」①

コロナ禍と長雨が続く徒然なる日々。

遠のいていた歌人相模の世界をふと思い出し、本当に久しぶりに『相模集』を開いた。
この数日のじっとりと湿った気分が、一千年前に”朽たし果てつる”と歌った歌人相模の言葉と、ぴったり重なるように感じたからだった。

 

『相模集全釈』(風間書房 1991)から_______________

軒の玉水かず知らぬまでつれづれなるに、「いみじきわざかな、石田(いした)のかたにも
すべきわざのあるに」とおのが心々に、しづのをの言ふかひなき声にあつかふも耳とまりて

78 雨により 石田のわせも 刈りほさで くたしはてつる 頃の袖かも

__________________________________

 

この歌は、「石田(いしだ)」という地名にこだわりを持ち続けている私にとって、ずっと特別な存在のままとなっている。
eonaiehon 2016-02-21 【『相模集』のなかの「堅田(かただ)」と「石田(いしだ)」のこと】など、こだわりの強さとは裏腹に、その後、何の進展もないままだけれど。)

追記(2022年9月14日)『相模集』の「石田(いしだ)」の所在について2022年現在も迷走を続けている。『相模集』の「石田(いしだ)」は大江公仲の伝領の荘園の「石田」(山城国)とは別個にあるとの想定のもと、近江国のほかに、山城国のなかでその所在を探し求めている。あくまでも、 「石田」の地名は”いしだ”と呼ばれている、という指標をもとに探したいのだ。】

そして、『コロナ禍と長雨で、我が身も”朽たし果てつる”ことだなぁ…』と、この78の歌などをしみじみ眺めるうちに、旧暦六月に歌われた別の歌が目に留まった。

453 かやり火も ふせげと思ふを こぞの夏 煙のなかに たちぞさりにし

一読しても、歌の背景が分からないのが気になった。
『相模集全釈』の解説文にも、「犬養廉氏も、歌意に判然としないところもあるとしながら、公資が相模のもとを去って行ったことを訴える歌としておられる。」とあった。

『そうなのか…判然としないのか…』と思った。
この453の歌は、「走湯権現奉納百首及びその贈答歌」として、248と349の歌を経て、一連の歌として作られたものだ。
それならば、それら一連の3首を読み直してみようと思った(実に”朽たし果てつる”ほどに徒然な日々から、少しでも抜け出したいのだった)。

旧暦であれば六月であったと思われる日の夕月(平塚海岸で)

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いまだに宙ぶらりんの日々。

 

梅雨らしい蒸し暑さが戻った今朝、真夜中に着信していたメルマガを読む。
そのメルマガの執筆者は今、ツイッターという言論の場から締め出されている。それでも、メルマガでの彼は健在であるように感じた。

今回、選ばれた題材はアレクサンドリア・オカシオ=コルテスだった。
そして切り取られたのは、2020年のアメリカ合衆国下院議員選挙での彼女の闘い方だ。

読み書きできるのは日本語だけの私にとって、このメルマガが時々伝えてくれるアメリカ合衆国についての独特の情報は、読んでいて楽しいものの一つだ。
(もう一つ、ネット上で読み続けているのは、白井青子さんの『ウィスコンシン渾身日記』。こんなふうに日本以外の国で暮らしてみたかったなと、ちょっとうらやましく感じながら読んでいる。)

アレクサンドリア・オカシオ=コルテスを題材にした今回のメルマガの結論は、”闘う相手には直角に当たることが重要だ”というものだった(これは、執筆者のこれまでの主張に沿ったものだ)。

読み終わって、遥か遠いアメリカから、眼の前の日本の現実へと意識が戻る。

宙ぶらりんの暮らしが続くなか、7月の東京都知事選挙も、「神のみぞ知る」衆議院解散・総選挙も、”闘う相手”は見えながら、”闘い方”は見えてこないのがもどかしい。

 

いまだに私のカレンダーは白紙のまま、日々の外出も半径2㎞以内のまま。
分かっているのは、私が今”直角に当たるべき相手”は、”自分そのもの”ということ。
そして、その”直角の当たり方”とはどのようなものか、やはり分からないのだった。
悩ましい宙ぶらりんの日々を繰り返している。

 

f:id:vgeruda:20200626135130j:plain 海とハマユウ

 

f:id:vgeruda:20200626135203j:plainバッテン印の花(ヒルザキツキミソウ