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私の第三十四夜をつづります。

走湯参詣ルート5 ~道草①~

 ”相模の走湯参詣ルート”は、”相模湾岸ルート”ではないかと想定し、『相模集全釈』をもとに、”箱根越えルート”案も含めて、あれこれ考えたことをまとめてきた。”道草”の形で、書き落とした点を拾っておく。 
 
◆『相模集』では、「はこね山」の歌語のなかに、「伊豆山」が含まれているのではないか、と想定することについて
 
*『万葉集』には、「あしがらの」・「あしがりの」と詠みはじめながら、「箱根」・「箱根の山」・「箱根の嶺」、「土肥の河内に出ずる湯」の語が続く歌が見られる。当時、「足柄の」の歌語が、箱根山から土肥(現在の湯河原)の温泉地域までも含んだ使われ方をしているように思われる。
 現在は、金時山から足柄峠にかけての山並みを、箱根山に含めて捉える見方があるようだが、そもそも、足柄の坂はもちろん、箱根も土肥も、大江公資が赴任中に通ったであろう早川牧も、足下(足柄下)郡に含まれる。
 さらに、明治時代初期には、相模国西部と伊豆国の範囲を”足柄県”としたことを、今回初めて知った。”足柄”の地名の威力、おそるべし、というべきだろう。
 そして、11世紀前半の時代の「はこね山」の地名が指し示す範囲についても、現代の視点で限定的に捉えることには慎重であってよいだろうと思う。
 
*『更級日記』の作者(菅原孝標の娘)は、11世紀前半(1020年)の相模国の海岸線の景色について、「にしとみといふ所の山、絵よくかきたらむ屏風をたてならべたらむようなり。」と記している。 この「にしとみ」の地はどこかについてはいまだ解決されていない。
  「『更級日記』の中の「相模」」(実川恵子 『神奈川の伝承と文学(3))の論考では、「中世 私称の郡号にて、専ら箱根山中を指せるが如し、西土肥の義にて、訛りて西土美と為れるなり」(吉田東吾『大日本地名辞書』)をもとに、「にしとみ」=「西土肥」の解釈について言及されている。
 この『更級日記』の「にしとみ」を「西土肥」と解釈する視点も、『相模集』の「はこね山」に「伊豆山」が含まれるのでは、という想定と通じるように思う。
 つまり、”西土肥”が”箱根山中”を指すならば、”伊豆山”を”南箱根”ととらえてもよいのではないか、と強弁できそうに思うのだ。
 そして、『更級日記』に記された屏風をたてならべたような美しい山並みは、限定的な箱根山を指すのではなく、(伊豆山を含む)伊豆から箱根にかけて連なる山並みだったのだろう、と思えるのだ。