enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

『小説家の休暇』の断片。

暇にまかせ、ぐるぐる思いめぐらすなかで……現在の自分という存在を形づくる意識というものは、結局は若い頃のそれと切れ目なくつながっているのだな……と思い至った(しごく当たり前なことなのだけれど)

で、先日、歌舞伎座に出かけたことも、やはり過去に味わった”欲望”に衝き動かされての行動だったのか、と改めて納得した(そもそも過去の自分が、歌舞伎というものに初めて”欲望”を抱いたきっかけは、”三島由紀夫”だったのだと…)

思えば、高校時代に三島由紀夫の作品に出会ってから社会に出るまでのモラトリアム期間のなかで、三島由紀夫という存在・世界をどうとらえるかが、私にとっての大きな課題だった(それ以降、そうした課題が何一つあらわれなかったこと自体が、私という人間の欠損?をあらわしていると思う)

しかし、そのような大きな存在・世界だった三島由紀夫も、しだいに仕事や家事という現実世界に埋没してゆく私にとって、胸の奥壁にピン止めされたブロマイドのような”過去の記念品”にすぎなくなっていった。

それでも、今なお”三島由紀夫”という文字を眼にした時、胸の奥にかすかな疼きを感じたりする(一過性の感傷でしかないのだけれど)

その疼きを、つい先日、ためていた新聞を読んでいた時にかすかに感じた。
その新聞の「惜別」という記事の冒頭に、”時代と寝る”という言葉を見つけて、かつて”三島由紀夫”という存在・世界が私にもあった…と思い出したのだった。

自分の中に残っている”何ものか”の断片が、こうしてふと意識に浮き上がった時に、現在の私が過去の私と切れ目なくつながっていることを、何となく感じたり確かめることができるものらしい。若い時、”何ものか”に出会うことが少なすぎたようだ…そんな気がする(もう遅い)