enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

現実からの逃走。

あってはならない画像をネット上で眼にして衝撃を受け、その画像を閉じてしまった。イスラエル~ガザに関連した非日常的な画像の流れに混じっていたそれは、絶対にあってはならない場面だった。状況は何も分からない。ガザではないのかもしれない。また、フェイクなのかもしれなかった。薄暗い地下室のような部屋の、やや低い天井から「少女」…そのようにしか見えなかった…が、ねじれた「人形」のようにダランとぶら下がっていた…ぶら下げられていた…。その「人形」の服も身体も、どこかが引きちぎれてしまって変形しているように見えた。そのすぐ左横に成人男性が数人立っていた。いったい、どのような状況なのか、どうにも想像することができない。もし、あの場面が現実のものなら、あの薄暗い部屋は、「かつての収容所」の「かつてのガス室」と同じ“陥穽”であり、「少女」は、「2024年のガザという収容所」の「2024年のガス室」に追い込まれた”2024年の生贄”だ。(本当にそうなのだとすれば、いったいどうすればよいだろう? かつての時代、”ガス室に送り込まれる生贄”の存在に気づいた人は、どのように行動したのだろう?)あんな場面は、絶対にあってはならない。フェイク画像なのか。きっと、ぶら下げられていたのは「人形」なのだ。『 だって横に立っていた男たちは、ぶら下がった「少女」の横で、何事も起きていないかのように撮影されていたのだから 』 こんな曖昧な気持ちで(見なかったことにして)画像を閉じてしまった。今、その画像の状況を確かめようと探しても、どこにも見つからない。最近、時に、夢と現実との境界がアヤフヤになって不安になる。夢だったのか? 2024年の日本で生き、2024年の見たくない現実から逃走しながら…『虐殺はやめろ』…。

 

メモ(3):「春」墨書土器のまとめ。

 

真田・北金目遺跡群の「高大長」須恵器墨書土器について、高座郡大領が係わる可能性を思いついてメモ書きしたあと、『当時の高座郡大領が、郡領域を越えて、わざわざ大住郡…余綾郡の可能性も?…での祭祀に係る可能性はあるだろうか?』と自問した(やはり、あり得ないのでは?…と)

で、気を取り直し、次に長年の宿題であった「春」墨書土器について、今できることをやっておこうと思った…妄想は後回しにして…

過去に取り寄せた資料や、「 全国墨書土器・刻書土器、文字瓦 横断検索データベース」明治大学 日本古代学研究所)をもとに、次のような一覧を作った。

 

【個人的 table 】「春」墨書土器一覧〔註〕

〔註〕全国データから限定的に選択した44例の一覧表を作成した。(確実でない墨書や「春日」のような二文字以上の墨書は除外し、確実と思われる「春」一文字の墨書土器を選択した。)

これらの限定的に選択した44例について、現時点で次のようにまとめてみた。
(註:平塚市の出土数が多いことが影響したまとめになっている)

◆年 代◆
*8c代(2例)
9c代(16例)
*10c代(12例)

◆出土遺構◆
井戸(4例)
井戸関連施設(7例)
旧河道(2例)
水場状遺構1例)
*周溝・大溝・雨落ち溝(3例)
*竪穴住居(7例)
掘立柱建物(1例)
*土坑(6例)
*竪穴状遺構(4例)
*灰原・土器溜り(2例)

◆器 形◆
(25例)
*埦(8例)
*皿(3例)
*甕(1例)
*蓋(1例)

◆器 質◆
土師器(24例)
*須恵器(10例)
*灰釉陶器(6例)

◆地 域◆
東山道(9例)
東海道(23例)
北陸道(2例)
畿内(5例)
山陽道(1例)
西海道(4例)

◎「春」墨書土器は東日本(とくに東海道に多い
◎水に係る遺構からの出土が多い
◎9c代の遺構からの出土が大半
平塚市の事例は「下郷編年10期」・10c前半とされ、やや後れるか?)
平城宮跡や鹿の子C遺跡など、国が関与する遺跡からも出土
平塚市・構之内遺跡の「春」朱墨・灰釉陶器3点は、同じ調査区から出土し、全国的にも特殊
平塚市・構之内遺跡の「春」墨書・土師器は、同じ調査区からの最多出土数で、全国的にも特殊

 

【付記】

*鶴田Ⅱ遺跡「春」墨書・灰釉陶器皿平安時代の井戸)
東海道遠江国の事例で達筆。

つくば市中原遺跡「春」刻書・須恵器坏(9c中葉の竪穴住居)
東海道常陸国‐河内郡の付属寺院とされる九重廃寺跡に隣接。

平城宮跡「春」墨書・土師器皿(雨落ち溝)と土師器埦(不明遺構)
東院の西側に溝(SD3410)が二条大路まで南北に走っているが、その溝の南端付近から「春」墨書・土師器皿(第32次補足調査)が、北半部付近から「春」墨書・土師器埦(第104次調査)が出土。
なお、SD3410の北端付近から皇朝十二銭(第154次調査「和同開珎」・「万年通宝」・「神功開宝」)、中央付近から「相模国右▢」墨書・土師器埦A(第29次調査、他)が出土。

 

まだ途上のメモ書きではあるけれど、長く等閑視してきた宿題にようやく手をつけることができたようで嬉しい。これも、現在進行形の高座郡衙に励まされたからだと思う。
(真田・北金目遺跡群‐水場状遺構出土の「高大長」墨書土器については、須恵器に手慣れた筆さばきで書かれていることに、やはり公的・官衙的な雰囲気を感じてしまう。あきらめずに、これからも現在進行形で妄想してゆきたい。)

 

メモ(2):真田・北金目遺跡群と構之内遺跡の皇朝十二銭出土。

【個人的map:真田・北金目遺跡群】

<註>4区「高大長」墨書土器は、4区の西側に隣接する1区の出土資料と接合したもの。上図では”4区出土資料”として記載した。

 

【個人的map:構之内遺跡】

 

今回、皇朝十二銭の出土にまつわる私の妄想は、高座郡家を経て真田・北金目遺跡群から、さらに相模国府域の構之内遺跡へと広がっていった。

妄想が広がったきっかけは、真田・北金目遺跡群の調査報告書だった。
図書館で、その報告書を眺めていて、皇朝十二銭「和同開珎」や銅鈴、「酒」墨書土器などが出土した4区6号水場状遺構【註】から、「春」墨書土器が出土していることを知ったのだ。

まさか真田・北金目遺跡群の水場状遺構から「春」墨書土器が出ていたとは…。
皇朝十二銭が多く出土する真田・北金目遺跡群での思いがけない「春」墨書土器の出現だった。)


「春」墨書土器は、かつての記事 相模国庁所在地の空白(1) - enonaiehon (hatenadiary.jp) 以降、”宿題”としてホコリをかぶっていた。
当時は、”春時祭田“の系譜につながるような祭祀が、時代を下った平安時代に構之内遺跡で行われ、国府の水辺で「春」という季節、農耕の季節の到来をことほぎ、田の神様への祈りを奉げていたのではないか…そして、その祭祀の主催者は在地の有力者ではないだろうか?などと妄想していたように思う。
(かつて、こうした「春」墨書土器の謎に少しでも近づければと、国会図書館にも出かけたけれど、結局「春」が季節名なのか・氏名なのか・地名なのか・吉祥文字なのかの答えにすらたどりつけなかった。
ちなみに、「春」の連想の一つとして、相模国の9c末の権守  ”源 平” の兄弟 ”春 尋” がいるけれど…もちろん「春」墨書土器につながるものではない…嵯峨源氏にまつわるエピソードの一つとして興味深いものだ。)

そして今回、新たな「春」墨書土器の出現に刺激され、恣意的な視点で【個人的map:構之内遺跡】を作ってみた。

結果、構之内遺跡については、”大住郡大領・壬生氏に係る遺跡”では?という素人の雑な妄想へとたどりついた。
(*墨書土器「生」・「王」や焼印「王」は、「壬」と「生」の文字をデザイン化した「王」であり「生」なのでは?という妄想。
*さらには、谷川を隔てた南東側の神明久保遺跡出土の「王区」墨書土器についても、「王田」と読める可能性のもとに、”壬生氏の田”を意味するのでは?という妄想。
*とはいえ、焼印「王」は「三」である可能性がある。
*「生」についても、他の文字と組み合わせて吉祥句とされることが多いようなので、単に吉祥文字の意味合いであるのかもしれない。
また、武蔵国男衾大領・壬生吉志福正や下野国都賀郡出身の円仁などの足元で、「生」・「王」といった墨書土器が有意な数として出土しているのか?といったことも、まだ何も調べてはいない。


最後に、『平塚市史 11下 別編考古(2)』などをベースに、構之内遺跡の様相を大まかにまとめると次のようになる。

◎構之内遺跡を通って、推定古代東海道(谷川〔やがわ〕)の北側を東西方向に走ること
◎構之内遺跡第1地区A地点では、
  南北棟の掘立柱建物群が(中庭のような空閑地をはさんで)東・西に展開すること
  *「春」墨書土器をともなう井戸祭祀が想定され、狻猊鏡・皇朝十二銭などの特殊遺物、鉄製鍬先などが出土すること
◎構之内遺跡第1地区B地点(A地点の南東、谷川〔やがわ〕沿い)は、生産地(乾田式水田)と想定されること
◎構之内遺跡第2地区では人面墨書土器が出土し、「国司の経済的基盤の一部」を担う畑作地と想定されること
◎構之内遺跡第3地区では、推定古代東海道をはさんで集落が展開し、銅印・焼印・皇朝十二銭などの特殊遺物が出土すること

これらの様相は、構之内遺跡が相模国府域内において重要な性格をもつことを示しているけれど、その明確な位置づけは、いまだなされていないように思う。
(明石 新氏は、この構之内遺跡について『平塚市史 11下 別編考古(2)』で「今後は、道路に沿った遺跡がどのような性格をもつかを見極める時期にきていると考える」と書かれている。約20年後の今、研究者による”見極め”が必要な遺跡であることを改めて強く感じている。)

 

【註】
真田・北金目遺跡群の4区1号水場状遺構からは「高大長」墨書土器(須恵器坏)が出土している(底部外面の墨書文字の配置は次の通り)

「  

     

      」

そして、この「高大長」墨書土器が出土した4区1号水場状遺構は、1区4号水場状遺構の北~東隣に位置する。
報告書を読んで私が理解したのは、次のようなことだった。
________________

*2片に割れた「高大長」墨書土器の1片が、1区4号水場状遺構からの自然流路によって、他の遺物とともに4区1号水場状遺構へと流れ込んだ。
*1区4号水場状遺構に残った1片と4区1号水場状遺構に流れ込んだ1片とが接合され、報告書に「高大長」墨書土器として記載された。
________________

以上から、4区1号水場状遺構の墨書土器の多くが1区4号水場状遺構で行われた祭祀に使われたのでは?と推測した。

なお、「春」墨書土器については、同じ4区でも6号水場状遺構…つまり、1区4号水場状遺構~4区1号水場状遺構とはつながらない別の水場遺構…から出土している。

現時点では、「春」墨書土器や「高大長」墨書土器を用いた祭祀の主体者、ひいては、相模国府域・構之内遺跡での井戸祭祀の主体者を結びつける材料は見つかっていない。

一方で、これらの水場状遺構には、次のような墨書文字の共通性も見受けられる。

◆1区4号水場状遺構~4区1号水場状遺構と、4区6号水場状遺構との間で共通する墨書文字:「宅」・「田」・「井」・「万」

◆構之内遺跡の墨書文字が、真田・北金目遺跡群1区4号~4区1号水場状遺構や4区6号水場状遺構出土の墨書文字との間で共通するもの:
 *「山」と「川」は、1区4号水場状遺構と共通
 *「春」と「田」は、4区6号水場状遺構と共通
 *「田」は、1区4号~4区1号水場状遺構や4区6号水場状遺構と共通

ここで、一般的な墨書文字(「田」・「井」・「万」・「山」・「川」など)とは異なる「宅」墨書文字が何を意味するのか?という新たな疑問が生じるけれど、墨書文字「高大長」については、構之内遺跡の「春」墨書土器をヒントとして、現時点で次のような可能性を妄想している。
_______________

◇一般的な吉祥句ではなく、「高〔座郡〕」・「大〔住郡〕」・「長〔官〕(郡の長官=大領)を組み合わせた墨書文字(「高 長」+「大 長」)である可能性
_______________

おそらくこの「高大長」文字の謎が解ける日はやってきそうにないけれど、”素人の妄想は書き捨て”ということで、ここにメモ書きしてみた。

メモ(1):「皇朝十二銭」の出土年代。

 

今回、次の表をまとめた際に、高座郡家・七堂伽藍跡と平塚市内での皇朝十二銭の出土の背景に、当該地域高座郡や大住郡)の大領クラスの人々の活動があるのでは?と想像した。

 

【個人的table]:平塚市および茅ヶ崎市(「高座郡家」周辺)から出土した皇朝十二銭】(再掲)

<私の当初の想像>
高座郡家・七堂伽藍跡・北B遺跡の皇朝十二銭(初鋳年が8c末~9c初頭の「隆平永宝」・「「冨寿神宝」が多く出土する)をともなう祭祀の主体を高座郡家と想定。その祭祀活動が相模国府域内より先行する可能性。
②真田・北金目遺跡群(大住郡片岡郷と余綾郡金目郷の活動が重なる地域?)での皇朝十二銭をともなう祭祀の主体を大住郡家と想定。その祭祀活動が相模国府域内より先行する可能性。

こうした可能性に係わる出土遺構年代について、②の場合は『真田・北金目遺跡群』(2013年 平塚市博物館 平塚市社会教育課)によると次の通りだった。
____________________________________

   *708年「和同開珎」 4区SC006    :8c後葉~9c後葉頃
   *765年「神功開宝」 2区SI022(3点)  :9c前葉        
   *796年「隆平永宝」 2区SI028    :9c前葉
   *796年「隆平永宝」 55B2区SI0015   :10c前葉   
   *818年「冨寿神宝」 55A1区遺構外    :(不明)
   *835年「承和昌宝」 34A区SI083    :10c前葉
   *848年「長年大宝」 18A区SI003    :10c前葉
   *(  不明  )      2区SI29      :(不明)
____________________________________

このように、真田・北金目遺跡群での皇朝十二銭の出土遺構年代は9c前葉・10c前葉が中心であった。つまり、皇朝十二銭をともなう祭祀活動の年代を初鋳年から類推することには限界があるのだった。

同様に茅ケ崎市高座郡家・七堂伽藍跡・北B遺跡)についても、初鋳年を根拠に、祭祀活動が相模国府域に先行すると見なすことはできないのだろう。

ただ、真田・北金目遺跡群でなぜ「神功開宝」・「隆平永宝」の出土が多いのか、高座郡家周辺域でなぜ「隆平永宝」」が多いのか、相模国府域内ではなぜ「冨寿神宝」・「鐃益神宝」が多いのだろうか。
(単に、その種類の皇朝十二銭が多く存在した時期に祭祀活動が行われたに過ぎないのだろうか?)

もっと別の手がかりはないだろうか…?

 

 

 

 

 

「高座郡家~七堂伽藍跡」の【個人的map】を作りながら。

 

今回、「小出川河川改修事業関連遺跡群」の成果についても、改めて見直すことになった。
小出川の川沿い(七堂伽藍跡の西側~JR相模線線路沿い)は、高台上の高座郡庁周辺域とは様相を異にして、掘立柱建物や竪穴建物などの遺構が高い密度で分布し、旧河道も含めて、多様な遺物が出土していたのだった。

そして、その在り方が相模国府域の遺跡の雰囲気に重なるように感じた。
(これまで、相模国府域での緑釉陶器や皇朝十二銭などの出土様相から、その盛行期を9世紀代として大まかにイメージしてきた。そして今回、小出川沿いの調査成果にも、そのイメージと似たものを感じたのだ。こうした小出川沿いの様相の背景には、当時の郡司層…9c中葉の大領・壬生直黒主(高座郡)や大領・壬生直広主(大住郡)につながるような “壬生氏”の存在…があるのだろうか?)

なお、緑釉陶器については、相模国府の”後追い”のような出方に見える一方で、皇朝十二銭については、8世紀中葉初鋳の「万年通寶」や、8c末~9c初頭の「隆平永寶」・「冨壽神寶」などの集中的な出土が、相模国府域での皇朝十二銭の出方より”先行”するかのように見えて興味深く感じた。
(もし平塚市内で「万年通寶」…現時点では出土を確認できていない…が出土するならば、それは国府域内ではなく、真田・北金目遺跡群ではないか?と想像する。)

はたして、当時の高座郡・大住郡の郡司層の活動皇朝十二銭などを伴う何かしらの祭祀・奉賽…と、官衙相模国府や高座郡家)・寺院(七堂伽藍)造営の動きとは連動するものなのだろうか?

 

【個人的table]:平塚市および茅ヶ崎市(「高座郡家」周辺)から出土した皇朝十二銭】

主な参考資料:
・『平塚市内出土の古銭』(2008年 平塚市史編さん担当)
・「下寺尾官衙遺跡群の保存と調査~相模国高座郡衙と下寺尾廃寺(七堂伽藍跡)~」(2015年 大村浩司)
・「香川・下寺尾遺跡群の発掘調査の成果」(2006年 河合英夫)
・『小出川改修事業関連遺跡群Ⅱ』(2008年 財団法人かながわ考古学財団)・
小出川改修事業関連遺跡群Ⅲ』(2009年 財団法人かながわ考古学財団)
・『真田・北金目遺跡群』(2013年 平塚市博物館 平塚市社会教育課)

 

素人の妄想の最後に、現在進行形の「高座郡家」のおさらいとして、「高座郡家~七堂伽藍跡」の【個人的map】も残しておきたい。

 

【個人的map:高座郡家と七堂伽藍跡の概容】

 

「高座郡家」は現在進行形。

20日、横浜で考古学講座「近年の調査からみる高座郡家の様相」加藤大二郎氏)を聴いた。
2時間の講座は、最前線の調査成果に加えて講師の新鮮な見解も盛り込まれ、とても楽しいものだった。それらの多様な情報と見解に一気に触れたことで、錆びついて止まっていた時計が再び動き出したような気がした。
思えば「高座郡(たかくらぐうけ)…これまで個人的には「高座郡衙(こうざぐんが)」と呼んできたけれど…の郡庁発見(2002年)相模国府の国庁発見(2004年)から、20年という時間が堆積していたのだった(画期的な発見がもたらした当時の興奮も、それぞれの調査報告書やその後の検証によってしだいに鎮静化し、20年の時間の堆積のなかに埋もれてしまっていた)

そこで、私の”二十年ふた昔”となった過去の情報を見直し、更新するために、個人的な「高座郡家の変遷表」を作ってみた(現時点の私の拙い理解による変遷表ではあるけれど、覚書として残しておきたい)

〔註〕以下の表は、かつて明石 新氏が示された”「郡庁」の変遷の見直し”(「相模国高座郡衙(西方A遺跡)の諸問題について」明石 新 2007年『杉山先生古希記念論集』)を基本として、過去の資料情報や今回学んだ調査成果・見解などを加えたものです。私の情報不足・理解不足で問題点があると思いますが、今後もできる限り見直し、更新・修正したいと思います。

 

【個人的table:高座郡家の変遷表】

参考資料:「相模国高座郡衙(西方A遺跡)の諸問題について」(明石 新 2007年『杉山先生古希記念論集』)、『古代東国の地方官衙と寺院』(2015年 史学会例会シンポジウム)、『第28回茅ケ崎市遺跡調査発表会』発表要旨(2017年)、「重なる史跡における保存活用-史跡下寺尾官衙遺跡群と史跡下寺尾西方遺跡-」(大村浩司 2020年『茅ヶ崎市教育委員会平成30年度遺跡整備・活用研究集会報告書』など)

 

なお、今回の講座資料中の「近年の調査によりわかってきたこと」を次の通り、掲げておきたい。
〔令和5年度第6回考古学講座「近年の調査成果からみる高座郡家の様相~国史跡 下寺尾官衙遺跡群~」(茅ヶ崎市教育委員会 加藤大二郎)より引用・転載〕
___________________________________
1 正殿を囲む脇殿が左右対称ではなく、西脇殿が東脇殿より小さかったことがわかりました。
2 館・厨と想定された建物群が西側にも存在していることがわかり、建物周辺から「厨」と墨で書かれた土器が発見され、建物群が厨の可能性が高まりました。
3 郡家推定東側区画遺構より外(東側)において、古代の版築遺構が複数存在することを発見しました。
4 郡家推定東側区画遺構の出入り口部を発見しました。
5 郡家推定東側区画遺構より外(東側)において、区画遺構と近似した溝を発見しました。
6 郡家の立地する高台の地形において、郡家東側の南部が1707年以前に奥行約1.5m、高さ約20㎝の階段状に約50mの距離の間を掘削されている可能性を確認しました。
7 正殿南側の道路部分において、整地の可能性の高い土層を確認しました。
___________________________________

6の”階段状遺構”は、「高座郡家」に係るかどうかは不明であるけれど、郡家南西部の段切り造成・道状遺構などとともに、その全体像が今後の調査によって明らかになると嬉しい。
7の”正殿南側の整地層”についても、郡庁の変遷・存続期間に関連する可能性のある調査成果として、今後の分析・検証が楽しみな要素だった。

また、当日の会場内に展示されていた濃緑色の緑釉陶器(美濃産)も、小出川旧河道から出土している皇朝十二銭などとともに、「高座郡家」・「下寺尾廃寺」の時期変遷にも係わりそうな資料として興味深かった。 
小出川・駒寄川の旧河道出土の多様な資料…祭祀などに係る特殊な性格をうかがわせる資料…は、相模国府域で言えば、谷川沿いの構之内遺跡に似ているように感じる。また駒寄川の「田」墨書土器の出方も、真田・北金目遺跡群…相模国府域から離れた平塚市北西部に位置する…の水場遺構出土の「田」墨書土器と似ているように思う。そして、それらの資料の背景に、当時の郡司層の人々の活動が見えてくるように感じる。)

 

高台面を見せている中央の緑釉陶器:奈良三彩のような濃緑色が特徴的だ。



【追記①】高座郡衙について考える時によく思い出すのは、発見当時の明石先生の「あの現場(旧北稜高校のグラウンド)は、グラウンドを造る時にごっそり削られているようだから…という言葉だ。明石先生は当初から、造成で削り取られてしまった土層高座郡衙の9~10世紀の様相を語ってくれるはずの土層…を念頭に置き、また遺構外から9世紀の遺物が出土していることもふまえて、高座郡衙の年代観を考察されていたのだろうと想像する(その論考「相模国高座郡衙(西方A遺跡)の諸問題について」の中で、”高座郡衙は9世紀まで存続していたと積極的な解釈をしたい”と述べられている)
今回、区画溝の外(東側)で古代の版築遺構…礎石建物跡…が発見されていること、郡庁の北西部で9c中頃の「厨」墨書土器が発見されていることなどを知って、当時の明石先生の”積極的な解釈”が少しずつ具体化されているように感じている。
高座郡家」の調査・研究はいまだ進行形であるし、今後も進化していくのだろうと思う。

【追記②】なお、2017年11月の『enonaiehon』(西方遺跡(下寺尾官衙遺跡群)の平安時代の溝 - enonaiehon (hatenadiary.jp))の中で記していた”平安時代の溝”について、今回すっかり失念していたことに我ながら驚く。
慌てて『第28回茅ケ崎市遺跡調査発表会』発表要旨(2017年)を読み直す。

その”平安時代の溝”とは、第4次調査で”西方建物”の東側に発見された「1号溝」(幅2.5mの南北溝の上面に9c後半~10c代の遺物)なのだった。

(「高座郡家変遷表」を修正して、この”平安時代の溝”を加えなければ…やれやれ…)

ここで、改めて疑問に思う。
この第4次調査の”平安時代の溝(1号溝)”は、「高座郡家」の西側区画溝としての可能性はないのだろうか?と。
そして、今回の講座で配布された資料中の図「高座郡家で発見された遺構」に示された第7次調査B区の遺構(”溝状遺構”という情報を持っていないけれど)と関連するのだろうか?と。
(現在、「高座郡家」の西側区画溝が、西方B遺跡第1次調査A区の南北に走る大型溝状遺構…のように見える…に相当するならば、その年代観を知りたいと思う。
また、上掲の「近年の調査によりわかってきたこと」‐5の  ”郡家推定東側区画遺構より外(東側)において(発見された)区画遺構と近似した溝”  の具体的な位置付けも知りたいと思う。)

このように、「高座郡家」は現在進行形なのだった。

 

仏像の”持続可能性”を学ぶ。

 

17日、横浜市指定・登録文化財展のトークイベント(山本勉氏×「みほとけ」さん)に参加した。

主催者は能登地震に言及される中で、その文化財の被災についても懸念を示された。
(冬の陽射しが明るく射し込むアトリウムの時空間の彼方に、能登の現在があるのだと思い及んだ瞬間、不覚にも涙があふれた。)

巧みに展開してゆく”トーク”と洗練された画像資料に引き込まれ、1時間半があっという間に過ぎた。

ことに、證菩提寺阿弥陀三尊像の由来は強く印象に残った。
また、会場には向導寺・阿弥陀如来坐像の台座部材や解説パネルが展示され、なかでも金箔の残る”蕊”の美しい形に魅惑された。

山本勉氏と「みほとけ」さんのやり取りを聴きながら、人々の信仰に守られながら歴史の波をくぐりぬけてきた仏像という存在の強さと儚さを思う。
その強い精神性とともに、文化財として研究対象として奥行きを深めつつ、長く長く生き残り続けてほしい…そして、私も限られた人生の中で、そうした仏像たちにたくさん出会いたい…そう思った。

 

【左】向導寺阿弥陀如来坐像台座の「蕊(しべ)
【右】向導寺阿弥陀如来坐像台座の「蕊」に残る金箔 

 

【左】「向導寺 阿弥陀坐像 台座 残存部材」解説パネル
【右】「仏像の台座」解説パネル(證菩提寺 阿弥陀三尊 中尊像 台座)

 

【左】向導寺 阿弥陀如来坐像 「保存修理の過程」解説パネル
【右】(左写真の部分拡大‐横から・正面から・バラバラの部材‐):
お像の腹部下方に脚部材を組み込む構造(二つのホゾ穴で接合する)…寄木造りがまだ良く理解されていない時期?…といった説明があり、仏師が手探りで制作するようなそのイメージにリアルさと親しみを感じた。


向導寺「阿弥陀如来坐像 修理前後の姿」解説パネル 



「寶林寺 釈迦如来坐像」解説パネル 

 

「證菩提寺 阿弥陀三尊像 (修理前)」解説パネル:
浄楽寺の阿弥陀三尊像と、どのように違うのだろう?(どのように似ているのだろう?)
そして、制作した仏師は誰なのだろう?




寶林寺(南区)・證菩提寺栄区・向導寺泉区の所在位置
(「横浜市内の指定文化財  [彫刻]  所在地図」パネルの撮影写真上に、「向導寺」(泉区)・「菩提寺」(栄区)の寺名を拡大して追加今年度指定の「(寶林寺)●」を南区内に追加)

 

「令和5年度 横浜市指定・登録文化財展」チラシ:
菩提寺 阿弥陀三尊像については、会期途中の2月27日~3月10日のみ、展示されるとのことだった。
岡崎義実源義朝を偲ぶよすがとして、これらのお像を間近に拝することができれば嬉しい。)
重要文化財 證菩提寺阿弥陀三尊像 保存修理後初公開のお知らせ【横浜市歴史博物館】 | 公益財団法人横浜市ふるさと歴史財団のプレスリリース (prtimes.jp)


1月17日の空(横浜市役所前で):
クイーンズスクエアの屋上から白煙が立ち昇る…どこかSFめいた風景。