enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

メモ(5):「田」墨書土器とは?

 

2月がまたたく間に過ぎてしまった。
「田」墨書土器とは?…何のために誰が?…とウロウロしながら。

そのウロウロのなかで、土器などに墨書する行為が、仮に畿内から地方に伝わったものであるならば、「田」墨書土器についても、畿内及び畿内以東の遺跡からの出土数を見比べることで、何かしら読み取れることがあるかもしれないと思った。
そこで、現在の都道府県別の出土数(明治大学 日本古代学研究所「墨書土器・刻書土器データベース」)をもとに、次のような地図を作ってみた(便宜的に、北は宮城・山形まで、西は京都・大阪までの範囲の地図にした。なお、データベースは「田」一文字のほか、多文字の資料も含めて集成している)

【個人的map:「田」関連墨書・刻書の分布】
          参考資料:明治大学 日本古代学研究所「墨書土器・刻書土器データベース」

 

地図を作りながら、印象に残ったことをメモ書きしておく。

◆福島・宮城両県では、

〇「田」関連墨書文字瓦(福島:5点、宮城83点)のみで、「田」関連墨書土器が皆無であることが際立つ。
陸奥国政庁・多賀城が所在する宮城県からの出土が、8世紀を中心とする文字瓦(陽刻・押印)で占められる。
〇福島・宮城が「田」関連墨書土器の空白地域…データベース上ではゼロでも、実際には存在するのかもしれないが…であるのはなぜか?(なぜ、坂東とは異なる様相を示すのか? 宮城県福島県・愛知県などが、「田」関連墨書土器の空白地域…そもそも墨書土器そのものの空白地域?…であることをどうとらえればよいのか?)

◆神奈川県の近隣県では、

〇千葉県の出土数(全411点)は圧倒的で、文字瓦2点・墨書土器409点。
多量の墨書土器のほとんどは竪穴住居跡から出土。
「田」一文字の墨書土器の早い時期の資料は8世紀中(中頃? or  中葉?)
文字瓦2点は上総国分尼寺と真行寺廃寺(武射寺‐武射郡家周辺寺院)からそれぞれ1点出土。

群馬県(全162点)は、文字瓦79点国分寺国分尼寺や上植木廃寺・山王廃寺などから多く出土)・墨書土器83点。
文字瓦は「田」一文字のほか、「山田」・「薗田」・「八田」など二文字が多い。

〇栃木県の出土数(全93点)は、文字瓦44点(8世紀前半 国分寺官衙遺跡などから多く出土)・墨書土器49点。
墨書土器の時期は平安時代がほとんど。
文字瓦は「田」一文字のほか、「矢田」など2文字以上も多い。

茨城県(全92点)は、文字瓦8点(8世紀前半のみ 田谷廃寺跡といった官衙遺跡などから出土)・墨書土器84点。墨書土器のほとんどは竪穴住居跡から出土。
「田」一文字の墨書土器の早い資料は8世紀後半。
文字瓦は「田」を含むもの岡田」「津田」「根田」など)のみで、「田」一文字の資料はゼロ。

〇埼玉県(全107点)は、文字瓦8点・墨書土器99点。墨書土器は、北島遺跡、将監塚・古井戸遺跡など大規模集落跡や、豪族にかかわる可能性のある遺跡からの出土を含む。墨書土器の時期は平安時代が中心。
文字瓦は「田」一文字の資料が2点、6点が「若田部」・「山田」など2文字以上。

〇東京都(全76点)は、文字瓦11点・墨書土器65点。
墨書土器は国府関連遺跡や国分寺跡・国分尼寺跡から、文字瓦は国分寺関連遺跡からの出土が多い。
「田」一文字の墨書土器の早い時期の資料は8世紀前半、8世紀中頃。
文字瓦は「田」一文字の資料が2点、9点が「蒲田」・「長田」など2文字以上。

〇神奈川県(全108点)は、文字瓦2点・墨書土器106点。
墨書土器は、平塚市の真田・北金目遺跡群から42点、茅ケ崎市の北B遺跡から26点(報告書では25点)(計68点)、全体の6割が大住・高座両郡の水辺の遺跡から出土し、時期的には真田・北金目遺跡群(1区SC004水場遺構 8世紀中葉)が北B遺跡(1区1号遺物集中区/旧河道 9世紀中葉)に先行している。
文字瓦は多文字(”粘土”を意味する「石田」を含む)の2点小田原市・千代廃寺 表採)。

静岡県(全81点)は、墨書土器81点に対し文字瓦はゼロ。時期は奈良時代に集中。
出土地には、伊場遺跡・城山遺跡(敷地郡衙に関連)、御殿・二之宮遺跡遠江国府推定地)、坂尻遺跡遠江国佐野郡衙に関連)など、官衙関連遺跡が名を連ね、御殿・二之宮遺跡からは「田」一文字の墨書土器5点が出土。

京都府奈良県滋賀県大阪府の墨書土器で時期的に古い資料例として、次のようなものがある。

京都市木津川市馬場南遺跡:「田」奈良時代 墨書 土師器埦 流路)
*なお、「田」一文字の墨書土器とは性格が異なるかもしれないが、より古い資料として、日ノ岡堤谷須恵器窯跡(山科区)の
「奉田田加米」(飛鳥時代 刻書 須恵器平瓶 「加米」は「かめ」と読む?)の事例がある。

奈良市平城京:「田」2点奈良時代前半 墨書 須恵器皿・須恵器坏 平城宮外の官衙的施設…「大学寮」か?…の大規模土坑)

甲賀市(宮町遺跡 紫香楽宮跡推定地):「田」(8世紀中頃 墨書 須恵器坏 溝)

〇八尾市(池島・福万寺遺跡):「田」(8世紀中頃 墨書 土師器坏 弥生時代後期から水田経営が継続する遺跡) 

以上のように、”畿内”の「田」墨書土器の古い資料は、奈良時代前半あるいは8世紀中頃の時期となる。
とすれば、平塚市の真田・北金目遺跡群の「田」墨書土器(8世紀中葉)は古手の資料例と言えるだろうか?

◆こうして、一部の地域について大雑把に眺めてきて、ぼんやり浮かんできた個人的イメージは、

都城から地方へ墨書土器を使った祭祀的行為の様式が伝わってきた…というよりは、地方の人々が都城で墨書土器を用いた祭祀的行為をそれぞれ学び、都城から故郷に戻ったあと、地元でそれぞれ再現するに至った?
*「田」関連墨書土器の多様性というものは、人々の”学び”の多様性、”学びの再現目的”と”学びの再現様式”の多様性から生まれた?(千葉県などではかなり独自に展開し広がった?) 
*「田」関連墨書土器を使った祭祀的行為の主体者は、少なくとも、都城でそれらを学ぶことが可能な人々だった?(郡司階級や開発豪族など?)

 

 

 

まぶしい海。

 

26日、待ち望んでいた明るい光に誘われて海に向かった。

海までの真っすぐな通りを、ゆっくりと陽なたを選んで歩いた。朝晩の冷え込みを忘れてしまって、思わず『春だなぁ…』とうっとりする。

浜に着く。
キラキラ輝く平らかな海の彼方から、白波が次々と押し寄せてくる。

大島はうっすらと大きな島影を浮かべていた。
西の空には真っ白な富士、そしてあっさりと雪化粧した箱根の山々。

子どもの頃から慣れ親しんできた平塚の海だ。いつも私を受け入れ、見送ってくれる。

 

2月26日の海

 

2月26日の大島


2月26日の渚に映る空と雲

 

2月26日の富士



 

ひさかたぶりの『第三の男』。

 

2月は家族の白内障の手術があり、いつもより緊張する時間を過ごすことになった。

通院の付き添いで横浜に通う日々。
その合い間の24日、平塚市図書館で上映された『第三の男』を観た。

子どもの頃に「テレビ名画座」で初めて『第三の男』を観て、ラストシーンの並木道の美しさに強く心惹かれた。『自転車泥棒』や『地下鉄のザジ』とともに、長く記憶に残った。
もう少し大人になって、アリダ・ヴァリの『かくも長き不在』も観た。
アリダ・ヴァリの二つの映画の背景に第二次世界大戦があり、無彩色の物語の端々に戦争の傷が残っていることは理解していたはずだった。ただ、どちらの映画でも私が涙を流すことはなかったと思う。
キャロル・リード監督の映画は、やはりテレビで『落ちた偶像』を観た…”偶像”の意味も分からずに。
あの頃に観た白黒映画はどれも何かしら、シンプルな記憶の形でずっと残った。)


図書館の一室で映画が始まった。
何度か観ていた映画だった。
しかし、ステージの白い幕に映し出された『第三の男』は、まるで初めて観る映画のように展開していった。
今や70代となった私には、仕切り直しが必要だった。
登場人物たちの顔つきや言葉のすべて、その役柄の意味に意識をとぎすませた。戦禍の傷跡が残るウィーンの街並みに眼を見開いた。細部まで見落とすまいと小さな画面に集中した。
アリダ・ヴァリは時に愛らしく時に誇り高かった。オーソン・ウェルズの表情は常にやわらかく繊細だった。

そして、終盤の下水道のシーンを、息を押し殺して見つめ続けた。緊迫感が高まってゆく。迷路のような空間で繰り広げられる”狩り”…傷つき追い詰められた”第三の男”は、対峙する友人に、誘うような眼差しを返す。

白黒の映画はなぜ美しいのだろう?

夜のウィーンの街の黒々とした物陰から、一瞬の窓明かりで浮かび上がった男のはにかむような表情。
その街の地下空間で逃げ場を失った男の誘いかける眼。
さらにはラストシーンの遠近法の美しい空間を刻んでゆく女の歩み。
映画は狡い…さまざまな余韻を残して去ってゆく…ホリーとともに、私たちは取り残される。

観終わった私の鼻から涙がツーと流れ落ちた。
今や70代ともなると、涙は頬だけではなく、鼻からも流れ落ちることを知った…。

 

図書館で映画会があることは知っていた。でも、実際に観たのは今回が初めてだった。
大昔に読んだ小説を読み直す。大昔に観た映画を観直す。どちらも年を取らないとできない。大昔に生きていたこと、まだ生きていることを思い出した映画会だった。

メモ(4):茅ケ崎市「北B遺跡」の墨書土器から。

 

10日、横浜に出かけた。その空き時間に県立図書館に立ち寄り、『香川・下寺尾遺跡群発掘調査報告書』(香川・下寺尾遺跡群発掘調査 2005年)を閲覧した。

高座郡家の祭祀場とされる「北B遺跡」の墨書土器の中に、「大住郡」あるいは「壬生」氏高座郡・大住郡の郡司層)とのつながりを示すような資料があるかどうか、興味があった。

結論として、残念ながら、その明確な資料は確認できなかった。
(次の表のように、該当資料は僅かな数に限られ、「壬生」氏との係りを裏付ける材料にはならないようだ。
なお「大住」・「住」については、全国36例中、平塚市相模国府域の12例、茅ケ崎市の香川・下寺尾遺跡群‐北B地区の4例が占めている〔明治大学 日本古代学研究所「墨書土器・刻書土器データベース」〕。かなり限定的な墨書・刻書例であり、奈良・平安時代高座郡・大住郡の官衙的な地域でまとまって出土することは、両郡…郡司層…の結びつきを考える材料の一つになるかもしれない…その全てが明確に「大住」・「住」と記された資料ではないので、いつものように妄想に終わる可能性が大きいのだけれど。)

ちなみに、相模国分二寺が置かれ、「壬生氏」の本拠地の一つとして想定される海老名市に本郷遺跡(古代の高座郡があり、「生」墨書土器の出土は56例となっている(神奈川県82例のおよそ7割を占める)

ただ、その時期については、出土数は僅かながら茅ケ崎市の北B遺跡(古代の高座郡がやや早いように思われること、また平塚市では真田・北金目遺跡群ではなく、国府域の遺跡(古代の大住郡)から出土すること…海老名市本郷遺跡と同じく、やや後れて出土すること…が興味深い。

なお、藤沢市南鍛冶山遺跡(古代の高座郡人面墨書土器(墨書文字「相▢▢大▢郡三宅郷(「相模国大住郡三宅郷)」)の出土例なども、古代高座郡と大住郡との郡を越えた関係性を物語る資料として想起される。

 

茅ケ崎市「北B遺跡」の「高」・「住」・「壬」・「生」・「主」墨書土器】   
             参考資料:明治大学 日本古代学研究所「墨書土器・刻書土器データベース」

          
一方、報告書では、9c中葉~後葉に出土のピークを迎える墨書土器について、次のように指摘されていた。
(前略)墨書内容は「田」が最も多い(25例)。類似する出土例としては真田・北金目遺跡群(若林ほか 1999)の水場状遺構が挙げられる。(後略)

この「田」墨書土器の出土例(私が確認できる範囲)は次の通り。
〔註:「田」のほかに、「田口」「田八」「城田」などの例も含めた。人名・地名の可能性がある多文字の例は除外した。〕

*真田・北金目遺跡群:42例(『真田・北金目遺跡群』平塚市博物館平塚市社会教育課 2013年)
相模国府域‐構之内遺跡:4例(『平塚市内出土の墨書・刻書土器』平塚市史編さん担当 2001年)
相模国府域‐六ノ域遺跡:1例(『平塚市内出土の墨書・刻書土器』平塚市史編さん担当 2001年)
相模国府域‐神明久保遺跡:1例(『平塚市内出土の墨書・刻書土器』平塚市史編さん担当 2001年)

 

そこで、古代相模国の「田」墨書土器出土遺跡を、下表のとおり、郡別にまとめてみた明治大学 日本古代学研究所「墨書土器・刻書土器データベース」)
出土遺跡は、地域的・性格的にやや偏った分布を示しているように思える。
「田」や「生」といった文字は、「十」「万」「大」「井」などのように、全国的に出土する墨書文字として、神奈川県内相模国の領域内)でも一般集落遺跡から数多く出土するのでは?と想像していたので意外に感じた。

 

【古代相模国の「田」墨書土器出土遺跡】
             参考資料:明治大学 日本古代学研究所「墨書土器・刻書土器データベース」

*郡別では、大住郡52例・高座郡40例(計92例)、愛甲郡5例・足下郡4例・鎌倉別1例(計10例)となり、相模国全体の9割を大住郡・高座郡が占める。
*出土遺跡には、相模国府域の遺跡群、香川・下寺尾遺跡群、本郷遺跡、南鍛冶山遺跡、下曽我遺跡や国府津三ツ俣遺跡など、各郡の代表的な古代の遺跡が名を連ねる。また”大きなムラ”の姿を示す草山遺跡など、内陸部の集落遺跡からも出土している。

このように、海老名市本郷遺跡(古代の高座郡では「生」墨書土器が多用され、茅ケ崎市北B遺跡(古代の高座郡平塚市真田・北金目遺跡群(古代の大住~余綾郡)では「田」墨書土器が多用されることをどう考えればよいのだろう? そこに、どのような人々が係わって活動していたのだろう?

農業開発に係るような”ムラ”の祭祀(地方豪族が係わる私的あるいは公的祭祀?)、都から波及される律令祭祀、人々の暮らしにまつわる民間信仰…実務的な墨書のほかにさまざまな要素が入り混じる墨書土器の在り方から、何を読み取ることができるのだろう。もう少し、妄想を続けてみたい。

 

 

 



 

現実からの逃走。

あってはならない画像をネット上で眼にして衝撃を受け、その画像を閉じてしまった。イスラエル~ガザに関連した非日常的な画像の流れに混じっていたそれは、絶対にあってはならない場面だった。状況は何も分からない。ガザではないのかもしれない。また、フェイクなのかもしれなかった。薄暗い地下室のような部屋の、やや低い天井から「少女」…そのようにしか見えなかった…が、ねじれた「人形」のようにダランとぶら下がっていた…ぶら下げられていた…。その「人形」の服も身体も、どこかが引きちぎれてしまって変形しているように見えた。そのすぐ左横に成人男性が数人立っていた。いったい、どのような状況なのか、どうにも想像することができない。もし、あの場面が現実のものなら、あの薄暗い部屋は、「かつての収容所」の「かつてのガス室」と同じ“陥穽”であり、「少女」は、「2024年のガザという収容所」の「2024年のガス室」に追い込まれた”2024年の生贄”だ。(本当にそうなのだとすれば、いったいどうすればよいだろう? かつての時代、”ガス室に送り込まれる生贄”の存在に気づいた人は、どのように行動したのだろう?)あんな場面は、絶対にあってはならない。フェイク画像なのか。きっと、ぶら下げられていたのは「人形」なのだ。『 だって横に立っていた男たちは、ぶら下がった「少女」の横で、何事も起きていないかのように撮影されていたのだから 』 こんな曖昧な気持ちで(見なかったことにして)画像を閉じてしまった。今、その画像の状況を確かめようと探しても、どこにも見つからない。最近、時に、夢と現実との境界がアヤフヤになって不安になる。夢だったのか? 2024年の日本で生き、2024年の見たくない現実から逃走しながら…『虐殺はやめろ』…。

 

メモ(3):「春」墨書土器のまとめ。

 

真田・北金目遺跡群の「高大長」須恵器墨書土器について、高座郡大領が係わる可能性を思いついてメモ書きしたあと、『当時の高座郡大領が、郡領域を越えて、わざわざ大住郡…余綾郡の可能性も?…での祭祀に係る可能性はあるだろうか?』と自問した(やはり、あり得ないのでは?…と)

で、気を取り直し、次に長年の宿題であった「春」墨書土器について、今できることをやっておこうと思った…妄想は後回しにして…

過去に取り寄せた資料や、「 全国墨書土器・刻書土器、文字瓦 横断検索データベース」明治大学 日本古代学研究所)をもとに、次のような一覧を作った。

 

【個人的 table 】「春」墨書土器一覧〔註〕

〔註〕全国データから限定的に選択した44例の一覧表を作成した。(確実でない墨書や「春日」のような二文字以上の墨書は除外し、確実と思われる「春」一文字の墨書土器を選択した。)

これらの限定的に選択した44例について、現時点で次のようにまとめてみた。
(註:平塚市の出土数が多いことが影響したまとめになっている)

◆年 代◆
*8c代(2例)
9c代(16例)
*10c代(12例)

◆出土遺構◆
井戸(4例)
井戸関連施設(7例)
旧河道(2例)
水場状遺構1例)
*周溝・大溝・雨落ち溝(3例)
*竪穴住居(7例)
掘立柱建物(1例)
*土坑(6例)
*竪穴状遺構(4例)
*灰原・土器溜り(2例)

◆器 形◆
(25例)
*埦(8例)
*皿(3例)
*甕(1例)
*蓋(1例)

◆器 質◆
土師器(24例)
*須恵器(10例)
*灰釉陶器(6例)

◆地 域◆
東山道(9例)
東海道(23例)
北陸道(2例)
畿内(5例)
山陽道(1例)
西海道(4例)

◎「春」墨書土器は東日本(とくに東海道に多い
◎水に係る遺構からの出土が多い
◎9c代の遺構からの出土が大半
平塚市の事例は「下郷編年10期」・10c前半とされ、やや後れるか?)
平城宮跡や鹿の子C遺跡など、国が関与する遺跡からも出土
平塚市・構之内遺跡の「春」朱墨・灰釉陶器3点は、同じ調査区から出土し、全国的にも特殊
平塚市・構之内遺跡の「春」墨書・土師器は、同じ調査区からの最多出土数で、全国的にも特殊

 

【付記】

*鶴田Ⅱ遺跡「春」墨書・灰釉陶器皿平安時代の井戸)
東海道遠江国の事例で達筆。

つくば市中原遺跡「春」刻書・須恵器坏(9c中葉の竪穴住居)
東海道常陸国‐河内郡の付属寺院とされる九重廃寺跡に隣接。

平城宮跡「春」墨書・土師器皿(雨落ち溝)と土師器埦(不明遺構)
東院の西側に溝(SD3410)が二条大路まで南北に走っているが、その溝の南端付近から「春」墨書・土師器皿(第32次補足調査)が、北半部付近から「春」墨書・土師器埦(第104次調査)が出土。
なお、SD3410の北端付近から皇朝十二銭(第154次調査「和同開珎」・「万年通宝」・「神功開宝」)、中央付近から「相模国右▢」墨書・土師器埦A(第29次調査、他)が出土。

 

まだ途上のメモ書きではあるけれど、長く等閑視してきた宿題にようやく手をつけることができたようで嬉しい。これも、現在進行形の高座郡衙に励まされたからだと思う。
(真田・北金目遺跡群‐水場状遺構出土の「高大長」墨書土器については、須恵器に手慣れた筆さばきで書かれていることに、やはり公的・官衙的な雰囲気を感じてしまう。あきらめずに、これからも現在進行形で妄想してゆきたい。)

 

メモ(2):真田・北金目遺跡群と構之内遺跡の皇朝十二銭出土。

【個人的map:真田・北金目遺跡群】

<註>4区「高大長」墨書土器は、4区の西側に隣接する1区の出土資料と接合したもの。上図では”4区出土資料”として記載した。

 

【個人的map:構之内遺跡】

 

今回、皇朝十二銭の出土にまつわる私の妄想は、高座郡家を経て真田・北金目遺跡群から、さらに相模国府域の構之内遺跡へと広がっていった。

妄想が広がったきっかけは、真田・北金目遺跡群の調査報告書だった。
図書館で、その報告書を眺めていて、皇朝十二銭「和同開珎」や銅鈴、「酒」墨書土器などが出土した4区6号水場状遺構【註】から、「春」墨書土器が出土していることを知ったのだ。

まさか真田・北金目遺跡群の水場状遺構から「春」墨書土器が出ていたとは…。
皇朝十二銭が多く出土する真田・北金目遺跡群での思いがけない「春」墨書土器の出現だった。)


「春」墨書土器は、かつての記事 相模国庁所在地の空白(1) - enonaiehon (hatenadiary.jp) 以降、”宿題”としてホコリをかぶっていた。
当時は、”春時祭田“の系譜につながるような祭祀が、時代を下った平安時代に構之内遺跡で行われ、国府の水辺で「春」という季節、農耕の季節の到来をことほぎ、田の神様への祈りを奉げていたのではないか…そして、その祭祀の主催者は在地の有力者ではないだろうか?などと妄想していたように思う。
(かつて、こうした「春」墨書土器の謎に少しでも近づければと、国会図書館にも出かけたけれど、結局「春」が季節名なのか・氏名なのか・地名なのか・吉祥文字なのかの答えにすらたどりつけなかった。
ちなみに、「春」の連想の一つとして、相模国の9c末の権守  ”源 平” の兄弟 ”春 尋” がいるけれど…もちろん「春」墨書土器につながるものではない…嵯峨源氏にまつわるエピソードの一つとして興味深いものだ。)

そして今回、新たな「春」墨書土器の出現に刺激され、恣意的な視点で【個人的map:構之内遺跡】を作ってみた。

結果、構之内遺跡については、”大住郡大領・壬生氏に係る遺跡”では?という素人の雑な妄想へとたどりついた。
(*墨書土器「生」・「王」や焼印「王」は、「壬」と「生」の文字をデザイン化した「王」であり「生」なのでは?という妄想。
*さらには、谷川を隔てた南東側の神明久保遺跡出土の「王区」墨書土器についても、「王田」と読める可能性のもとに、”壬生氏の田”を意味するのでは?という妄想。
*とはいえ、焼印「王」は「三」である可能性がある。
*「生」についても、他の文字と組み合わせて吉祥句とされることが多いようなので、単に吉祥文字の意味合いであるのかもしれない。
また、武蔵国男衾大領・壬生吉志福正や下野国都賀郡出身の円仁などの足元で、「生」・「王」といった墨書土器が有意な数として出土しているのか?といったことも、まだ何も調べてはいない。


最後に、『平塚市史 11下 別編考古(2)』などをベースに、構之内遺跡の様相を大まかにまとめると次のようになる。

◎構之内遺跡を通って、推定古代東海道(谷川〔やがわ〕)の北側を東西方向に走ること
◎構之内遺跡第1地区A地点では、
  南北棟の掘立柱建物群が(中庭のような空閑地をはさんで)東・西に展開すること
  *「春」墨書土器をともなう井戸祭祀が想定され、狻猊鏡・皇朝十二銭などの特殊遺物、鉄製鍬先などが出土すること
◎構之内遺跡第1地区B地点(A地点の南東、谷川〔やがわ〕沿い)は、生産地(乾田式水田)と想定されること
◎構之内遺跡第2地区では人面墨書土器が出土し、「国司の経済的基盤の一部」を担う畑作地と想定されること
◎構之内遺跡第3地区では、推定古代東海道をはさんで集落が展開し、銅印・焼印・皇朝十二銭などの特殊遺物が出土すること

これらの様相は、構之内遺跡が相模国府域内において重要な性格をもつことを示しているけれど、その明確な位置づけは、いまだなされていないように思う。
(明石 新氏は、この構之内遺跡について『平塚市史 11下 別編考古(2)』で「今後は、道路に沿った遺跡がどのような性格をもつかを見極める時期にきていると考える」と書かれている。約20年後の今、研究者による”見極め”が必要な遺跡であることを改めて強く感じている。)

 

【註】
真田・北金目遺跡群の4区1号水場状遺構からは「高大長」墨書土器(須恵器坏)が出土している(底部外面の墨書文字の配置は次の通り)

「  

     

      」

そして、この「高大長」墨書土器が出土した4区1号水場状遺構は、1区4号水場状遺構の北~東隣に位置する。
報告書を読んで私が理解したのは、次のようなことだった。
________________

*2片に割れた「高大長」墨書土器の1片が、1区4号水場状遺構からの自然流路によって、他の遺物とともに4区1号水場状遺構へと流れ込んだ。
*1区4号水場状遺構に残った1片と4区1号水場状遺構に流れ込んだ1片とが接合され、報告書に「高大長」墨書土器として記載された。
________________

以上から、4区1号水場状遺構の墨書土器の多くが1区4号水場状遺構で行われた祭祀に使われたのでは?と推測した。

なお、「春」墨書土器については、同じ4区でも6号水場状遺構…つまり、1区4号水場状遺構~4区1号水場状遺構とはつながらない別の水場遺構…から出土している。

現時点では、「春」墨書土器や「高大長」墨書土器を用いた祭祀の主体者、ひいては、相模国府域・構之内遺跡での井戸祭祀の主体者を結びつける材料は見つかっていない。

一方で、これらの水場状遺構には、次のような墨書文字の共通性も見受けられる。

◆1区4号水場状遺構~4区1号水場状遺構と、4区6号水場状遺構との間で共通する墨書文字:「宅」・「田」・「井」・「万」

◆構之内遺跡の墨書文字が、真田・北金目遺跡群1区4号~4区1号水場状遺構や4区6号水場状遺構出土の墨書文字との間で共通するもの:
 *「山」と「川」は、1区4号水場状遺構と共通
 *「春」と「田」は、4区6号水場状遺構と共通
 *「田」は、1区4号~4区1号水場状遺構や4区6号水場状遺構と共通

ここで、一般的な墨書文字(「田」・「井」・「万」・「山」・「川」など)とは異なる「宅」墨書文字が何を意味するのか?という新たな疑問が生じるけれど、墨書文字「高大長」については、構之内遺跡の「春」墨書土器をヒントとして、現時点で次のような可能性を妄想している。
_______________

◇一般的な吉祥句ではなく、「高〔座郡〕」・「大〔住郡〕」・「長〔官〕(郡の長官=大領)を組み合わせた墨書文字(「高 長」+「大 長」)である可能性
_______________

おそらくこの「高大長」文字の謎が解ける日はやってきそうにないけれど、”素人の妄想は書き捨て”ということで、ここにメモ書きしてみた。