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私の第三十四夜をつづります。

ひさかたぶりの『第三の男』。

 

2月は家族の白内障の手術があり、いつもより緊張する時間を過ごすことになった。

通院の付き添いで横浜に通う日々。
その合い間の24日、平塚市図書館で上映された『第三の男』を観た。

子どもの頃に「テレビ名画座」で初めて『第三の男』を観て、ラストシーンの並木道の美しさに強く心惹かれた。『自転車泥棒』や『地下鉄のザジ』とともに、長く記憶に残った。
もう少し大人になって、アリダ・ヴァリの『かくも長き不在』も観た。
アリダ・ヴァリの二つの映画の背景に第二次世界大戦があり、無彩色の物語の端々に戦争の傷が残っていることは理解していたはずだった。ただ、どちらの映画でも私が涙を流すことはなかったと思う。
キャロル・リード監督の映画は、やはりテレビで『落ちた偶像』を観た…”偶像”の意味も分からずに。
あの頃に観た白黒映画はどれも何かしら、シンプルな記憶の形でずっと残った。)


図書館の一室で映画が始まった。
何度か観ていた映画だった。
しかし、ステージの白い幕に映し出された『第三の男』は、まるで初めて観る映画のように展開していった。
今や70代となった私には、仕切り直しが必要だった。
登場人物たちの顔つきや言葉のすべて、その役柄の意味に意識をとぎすませた。戦禍の傷跡が残るウィーンの街並みに眼を見開いた。細部まで見落とすまいと小さな画面に集中した。
アリダ・ヴァリは時に愛らしく時に誇り高かった。オーソン・ウェルズの表情は常にやわらかく繊細だった。

そして、終盤の下水道のシーンを、息を押し殺して見つめ続けた。緊迫感が高まってゆく。迷路のような空間で繰り広げられる”狩り”…傷つき追い詰められた”第三の男”は、対峙する友人に、誘うような眼差しを返す。

白黒の映画はなぜ美しいのだろう?

夜のウィーンの街の黒々とした物陰から、一瞬の窓明かりで浮かび上がった男のはにかむような表情。
その街の地下空間で逃げ場を失った男の誘いかける眼。
さらにはラストシーンの遠近法の美しい空間を刻んでゆく女の歩み。
映画は狡い…さまざまな余韻を残して去ってゆく…ホリーとともに、私たちは取り残される。

観終わった私の鼻から涙がツーと流れ落ちた。
今や70代ともなると、涙は頬だけではなく、鼻からも流れ落ちることを知った…。

 

図書館で映画会があることは知っていた。でも、実際に観たのは今回が初めてだった。
大昔に読んだ小説を読み直す。大昔に観た映画を観直す。どちらも年を取らないとできない。大昔に生きていたこと、まだ生きていることを思い出した映画会だった。