enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

メモ(1):「皇朝十二銭」の出土年代。

 

今回、次の表をまとめた際に、高座郡家・七堂伽藍跡と平塚市内での皇朝十二銭の出土の背景に、当該地域高座郡や大住郡)の大領クラスの人々の活動があるのでは?と想像した。

 

【個人的table]:平塚市および茅ヶ崎市(「高座郡家」周辺)から出土した皇朝十二銭】(再掲)

<私の当初の想像>
高座郡家・七堂伽藍跡・北B遺跡の皇朝十二銭(初鋳年が8c末~9c初頭の「隆平永宝」・「「冨寿神宝」が多く出土する)をともなう祭祀の主体を高座郡家と想定。その祭祀活動が相模国府域内より先行する可能性。
②真田・北金目遺跡群(大住郡片岡郷と余綾郡金目郷の活動が重なる地域?)での皇朝十二銭をともなう祭祀の主体を大住郡家と想定。その祭祀活動が相模国府域内より先行する可能性。

こうした可能性に係わる出土遺構年代について、②の場合は『真田・北金目遺跡群』(2013年 平塚市博物館 平塚市社会教育課)によると次の通りだった。
____________________________________

   *708年「和同開珎」 4区SC006    :8c後葉~9c後葉頃
   *765年「神功開宝」 2区SI022(3点)  :9c前葉        
   *796年「隆平永宝」 2区SI028    :9c前葉
   *796年「隆平永宝」 55B2区SI0015   :10c前葉   
   *818年「冨寿神宝」 55A1区遺構外    :(不明)
   *835年「承和昌宝」 34A区SI083    :10c前葉
   *848年「長年大宝」 18A区SI003    :10c前葉
   *(  不明  )      2区SI29      :(不明)
____________________________________

このように、真田・北金目遺跡群での皇朝十二銭の出土遺構年代は9c前葉・10c前葉が中心であった。つまり、皇朝十二銭をともなう祭祀活動の年代を初鋳年から類推することには限界があるのだった。

同様に茅ケ崎市高座郡家・七堂伽藍跡・北B遺跡)についても、初鋳年を根拠に、祭祀活動が相模国府域に先行すると見なすことはできないのだろう。

ただ、真田・北金目遺跡群でなぜ「神功開宝」・「隆平永宝」の出土が多いのか、高座郡家周辺域でなぜ「隆平永宝」」が多いのか、相模国府域内ではなぜ「冨寿神宝」・「鐃益神宝」が多いのだろうか。
(単に、その種類の皇朝十二銭が多く存在した時期に祭祀活動が行われたに過ぎないのだろうか?)

もっと別の手がかりはないだろうか…?

 

 

 

 

 

「高座郡家~七堂伽藍跡」の【個人的map】を作りながら。

 

今回、「小出川河川改修事業関連遺跡群」の成果についても、改めて見直すことになった。
小出川の川沿い(七堂伽藍跡の西側~JR相模線線路沿い)は、高台上の高座郡庁周辺域とは様相を異にして、掘立柱建物や竪穴建物などの遺構が高い密度で分布し、旧河道も含めて、多様な遺物が出土していたのだった。

そして、その在り方が相模国府域の遺跡の雰囲気に重なるように感じた。
(これまで、相模国府域での緑釉陶器や皇朝十二銭などの出土様相から、その盛行期を9世紀代として大まかにイメージしてきた。そして今回、小出川沿いの調査成果にも、そのイメージと似たものを感じたのだ。こうした小出川沿いの様相の背景には、当時の郡司層…9c中葉の大領・壬生直黒主(高座郡)や大領・壬生直広主(大住郡)につながるような “壬生氏”の存在…があるのだろうか?)

なお、緑釉陶器については、相模国府の”後追い”のような出方に見える一方で、皇朝十二銭については、8世紀中葉初鋳の「万年通寶」や、8c末~9c初頭の「隆平永寶」・「冨壽神寶」などの集中的な出土が、相模国府域での皇朝十二銭の出方より”先行”するかのように見えて興味深く感じた。
(もし平塚市内で「万年通寶」…現時点では出土を確認できていない…が出土するならば、それは国府域内ではなく、真田・北金目遺跡群ではないか?と想像する。)

はたして、当時の高座郡・大住郡の郡司層の活動皇朝十二銭などを伴う何かしらの祭祀・奉賽…と、官衙相模国府や高座郡家)・寺院(七堂伽藍)造営の動きとは連動するものなのだろうか?

 

【個人的table]:平塚市および茅ヶ崎市(「高座郡家」周辺)から出土した皇朝十二銭】

主な参考資料:
・『平塚市内出土の古銭』(2008年 平塚市史編さん担当)
・「下寺尾官衙遺跡群の保存と調査~相模国高座郡衙と下寺尾廃寺(七堂伽藍跡)~」(2015年 大村浩司)
・「香川・下寺尾遺跡群の発掘調査の成果」(2006年 河合英夫)
・『小出川改修事業関連遺跡群Ⅱ』(2008年 財団法人かながわ考古学財団)・
小出川改修事業関連遺跡群Ⅲ』(2009年 財団法人かながわ考古学財団)
・『真田・北金目遺跡群』(2013年 平塚市博物館 平塚市社会教育課)

 

素人の妄想の最後に、現在進行形の「高座郡家」のおさらいとして、「高座郡家~七堂伽藍跡」の【個人的map】も残しておきたい。

 

【個人的map:高座郡家と七堂伽藍跡の概容】

 

「高座郡家」は現在進行形。

20日、横浜で考古学講座「近年の調査からみる高座郡家の様相」加藤大二郎氏)を聴いた。
2時間の講座は、最前線の調査成果に加えて講師の新鮮な見解も盛り込まれ、とても楽しいものだった。それらの多様な情報と見解に一気に触れたことで、錆びついて止まっていた時計が再び動き出したような気がした。
思えば「高座郡(たかくらぐうけ)…これまで個人的には「高座郡衙(こうざぐんが)」と呼んできたけれど…の郡庁発見(2002年)相模国府の国庁発見(2004年)から、20年という時間が堆積していたのだった(画期的な発見がもたらした当時の興奮も、それぞれの調査報告書やその後の検証によってしだいに鎮静化し、20年の時間の堆積のなかに埋もれてしまっていた)

そこで、私の”二十年ふた昔”となった過去の情報を見直し、更新するために、個人的な「高座郡家の変遷表」を作ってみた(現時点の私の拙い理解による変遷表ではあるけれど、覚書として残しておきたい)

〔註〕以下の表は、かつて明石 新氏が示された”「郡庁」の変遷の見直し”(「相模国高座郡衙(西方A遺跡)の諸問題について」明石 新 2007年『杉山先生古希記念論集』)を基本として、過去の資料情報や今回学んだ調査成果・見解などを加えたものです。私の情報不足・理解不足で問題点があると思いますが、今後もできる限り見直し、更新・修正したいと思います。

 

【個人的table:高座郡家の変遷表】

参考資料:「相模国高座郡衙(西方A遺跡)の諸問題について」(明石 新 2007年『杉山先生古希記念論集』)、『古代東国の地方官衙と寺院』(2015年 史学会例会シンポジウム)、『第28回茅ケ崎市遺跡調査発表会』発表要旨(2017年)、「重なる史跡における保存活用-史跡下寺尾官衙遺跡群と史跡下寺尾西方遺跡-」(大村浩司 2020年『茅ヶ崎市教育委員会平成30年度遺跡整備・活用研究集会報告書』など)

 

なお、今回の講座資料中の「近年の調査によりわかってきたこと」を次の通り、掲げておきたい。
〔令和5年度第6回考古学講座「近年の調査成果からみる高座郡家の様相~国史跡 下寺尾官衙遺跡群~」(茅ヶ崎市教育委員会 加藤大二郎)より引用・転載〕
___________________________________
1 正殿を囲む脇殿が左右対称ではなく、西脇殿が東脇殿より小さかったことがわかりました。
2 館・厨と想定された建物群が西側にも存在していることがわかり、建物周辺から「厨」と墨で書かれた土器が発見され、建物群が厨の可能性が高まりました。
3 郡家推定東側区画遺構より外(東側)において、古代の版築遺構が複数存在することを発見しました。
4 郡家推定東側区画遺構の出入り口部を発見しました。
5 郡家推定東側区画遺構より外(東側)において、区画遺構と近似した溝を発見しました。
6 郡家の立地する高台の地形において、郡家東側の南部が1707年以前に奥行約1.5m、高さ約20㎝の階段状に約50mの距離の間を掘削されている可能性を確認しました。
7 正殿南側の道路部分において、整地の可能性の高い土層を確認しました。
___________________________________

6の”階段状遺構”は、「高座郡家」に係るかどうかは不明であるけれど、郡家南西部の段切り造成・道状遺構などとともに、その全体像が今後の調査によって明らかになると嬉しい。
7の”正殿南側の整地層”についても、郡庁の変遷・存続期間に関連する可能性のある調査成果として、今後の分析・検証が楽しみな要素だった。

また、当日の会場内に展示されていた濃緑色の緑釉陶器(美濃産)も、小出川旧河道から出土している皇朝十二銭などとともに、「高座郡家」・「下寺尾廃寺」の時期変遷にも係わりそうな資料として興味深かった。 
小出川・駒寄川の旧河道出土の多様な資料…祭祀などに係る特殊な性格をうかがわせる資料…は、相模国府域で言えば、谷川沿いの構之内遺跡に似ているように感じる。また駒寄川の「田」墨書土器の出方も、真田・北金目遺跡群…相模国府域から離れた平塚市北西部に位置する…の水場遺構出土の「田」墨書土器と似ているように思う。そして、それらの資料の背景に、当時の郡司層の人々の活動が見えてくるように感じる。)

 

高台面を見せている中央の緑釉陶器:奈良三彩のような濃緑色が特徴的だ。



【追記①】高座郡衙について考える時によく思い出すのは、発見当時の明石先生の「あの現場(旧北稜高校のグラウンド)は、グラウンドを造る時にごっそり削られているようだから…という言葉だ。明石先生は当初から、造成で削り取られてしまった土層高座郡衙の9~10世紀の様相を語ってくれるはずの土層…を念頭に置き、また遺構外から9世紀の遺物が出土していることもふまえて、高座郡衙の年代観を考察されていたのだろうと想像する(その論考「相模国高座郡衙(西方A遺跡)の諸問題について」の中で、”高座郡衙は9世紀まで存続していたと積極的な解釈をしたい”と述べられている)
今回、区画溝の外(東側)で古代の版築遺構…礎石建物跡…が発見されていること、郡庁の北西部で9c中頃の「厨」墨書土器が発見されていることなどを知って、当時の明石先生の”積極的な解釈”が少しずつ具体化されているように感じている。
高座郡家」の調査・研究はいまだ進行形であるし、今後も進化していくのだろうと思う。

【追記②】なお、2017年11月の『enonaiehon』(西方遺跡(下寺尾官衙遺跡群)の平安時代の溝 - enonaiehon (hatenadiary.jp))の中で記していた”平安時代の溝”について、今回すっかり失念していたことに我ながら驚く。
慌てて『第28回茅ケ崎市遺跡調査発表会』発表要旨(2017年)を読み直す。

その”平安時代の溝”とは、第4次調査で”西方建物”の東側に発見された「1号溝」(幅2.5mの南北溝の上面に9c後半~10c代の遺物)なのだった。

(「高座郡家変遷表」を修正して、この”平安時代の溝”を加えなければ…やれやれ…)

ここで、改めて疑問に思う。
この第4次調査の”平安時代の溝(1号溝)”は、「高座郡家」の西側区画溝としての可能性はないのだろうか?と。
そして、今回の講座で配布された資料中の図「高座郡家で発見された遺構」に示された第7次調査B区の遺構(”溝状遺構”という情報を持っていないけれど)と関連するのだろうか?と。
(現在、「高座郡家」の西側区画溝が、西方B遺跡第1次調査A区の南北に走る大型溝状遺構…のように見える…に相当するならば、その年代観を知りたいと思う。
また、上掲の「近年の調査によりわかってきたこと」‐5の  ”郡家推定東側区画遺構より外(東側)において(発見された)区画遺構と近似した溝”  の具体的な位置付けも知りたいと思う。)

このように、「高座郡家」は現在進行形なのだった。

 

仏像の”持続可能性”を学ぶ。

 

17日、横浜市指定・登録文化財展のトークイベント(山本勉氏×「みほとけ」さん)に参加した。

主催者は能登地震に言及される中で、その文化財の被災についても懸念を示された。
(冬の陽射しが明るく射し込むアトリウムの時空間の彼方に、能登の現在があるのだと思い及んだ瞬間、不覚にも涙があふれた。)

巧みに展開してゆく”トーク”と洗練された画像資料に引き込まれ、1時間半があっという間に過ぎた。

ことに、證菩提寺阿弥陀三尊像の由来は強く印象に残った。
また、会場には向導寺・阿弥陀如来坐像の台座部材や解説パネルが展示され、なかでも金箔の残る”蕊”の美しい形に魅惑された。

山本勉氏と「みほとけ」さんのやり取りを聴きながら、人々の信仰に守られながら歴史の波をくぐりぬけてきた仏像という存在の強さと儚さを思う。
その強い精神性とともに、文化財として研究対象として奥行きを深めつつ、長く長く生き残り続けてほしい…そして、私も限られた人生の中で、そうした仏像たちにたくさん出会いたい…そう思った。

 

【左】向導寺阿弥陀如来坐像台座の「蕊(しべ)
【右】向導寺阿弥陀如来坐像台座の「蕊」に残る金箔 

 

【左】「向導寺 阿弥陀坐像 台座 残存部材」解説パネル
【右】「仏像の台座」解説パネル(證菩提寺 阿弥陀三尊 中尊像 台座)

 

【左】向導寺 阿弥陀如来坐像 「保存修理の過程」解説パネル
【右】(左写真の部分拡大‐横から・正面から・バラバラの部材‐):
お像の腹部下方に脚部材を組み込む構造(二つのホゾ穴で接合する)…寄木造りがまだ良く理解されていない時期?…といった説明があり、仏師が手探りで制作するようなそのイメージにリアルさと親しみを感じた。


向導寺「阿弥陀如来坐像 修理前後の姿」解説パネル 



「寶林寺 釈迦如来坐像」解説パネル 

 

「證菩提寺 阿弥陀三尊像 (修理前)」解説パネル:
浄楽寺の阿弥陀三尊像と、どのように違うのだろう?(どのように似ているのだろう?)
そして、制作した仏師は誰なのだろう?




寶林寺(南区)・證菩提寺栄区・向導寺泉区の所在位置
(「横浜市内の指定文化財  [彫刻]  所在地図」パネルの撮影写真上に、「向導寺」(泉区)・「菩提寺」(栄区)の寺名を拡大して追加今年度指定の「(寶林寺)●」を南区内に追加)

 

「令和5年度 横浜市指定・登録文化財展」チラシ:
菩提寺 阿弥陀三尊像については、会期途中の2月27日~3月10日のみ、展示されるとのことだった。
岡崎義実源義朝を偲ぶよすがとして、これらのお像を間近に拝することができれば嬉しい。)
重要文化財 證菩提寺阿弥陀三尊像 保存修理後初公開のお知らせ【横浜市歴史博物館】 | 公益財団法人横浜市ふるさと歴史財団のプレスリリース (prtimes.jp)


1月17日の空(横浜市役所前で):
クイーンズスクエアの屋上から白煙が立ち昇る…どこかSFめいた風景。



「かながわの遺跡展」で。

 

13日、2022年夏に開館した茅ケ崎市博物館を初めて訪ねた。
『華ひらく律令の世界』(令和5年度 かながわの遺跡展)の展示を見学し、その足で市役所に向かい、井上和人氏による『なぜ「律令国家」なのか』の講演を聴いた。

茅ケ崎駅と、博物館が所在する堤坂下との間をバスで往復するなかでは、あれこれと思い出すことも多かった。
真新しい博物館のモダンな建築にも、また講演会に携わる人々の姿にも、一つの時代…私が考古学を学んでいた頃の…が遠く去って、別の新しい時代が始まっていることを感じさせられた一日だった。

そして、相模国府研究の進展を願い続けている一市民として、「過去の考古学的成果」を「骨董的に鑑賞する」だけで終わっている現状を淋しく思った(一方で、高座郡家については、今も確認調査が続き、新しい成果が積み重なっていることをうらやましく感じたりもした。)

 

~「かながわの遺跡展」で~

相模国府域のパネル:
今回の図では、国府域外の西に展開する官衙的な集落遺跡「中原上宿遺跡群」が加えられている。これまで、”大住軍団”などの軍事的拠点か?といった想定もされたこの遺跡群について、東の国府域へとつながる新町遺跡・東中原G遺跡・東中原E遺跡とともに、新たな分析によって、その位置づけが明らかにされることを願っている。

【個人的map:相模国府域と国府域外の関連遺跡】

 

左:「推定 相模国庁 東脇殿の遺構」のパネル〔註:上が北になるように展示を回転〕
右:「みつかった相模の国庁」のパネル

〔註:写真右のパネル「みつかった相模の国庁」は、図録では次の解説が続く。
「現在のところ、平塚市四之宮周辺に相模国府が存在したことは確実で、平成16年度に行なわれた湘南新道建設に先立つ発掘調査によって、六ノ域・坪ノ内遺跡から東西に2棟が並ぶ大型の庇付きの建物跡が発見され、国庁脇殿と考えられています。また、平塚市で見つかった相模国府(大住国府)の成立年代は8世紀中頃ということも判明しました。」(『令和5年度 かながわの遺跡展 華ひらく律令の世界 The Blooming World of RITSURYO』 2023年 神奈川県教育委員会

 

平塚市内出土の緑釉陶器(上段左から:埦‐真田・北金目遺跡群 手付瓶‐林B遺跡 
             下段左から:埦・皿‐林B遺跡 
香炉蓋‐構之内遺跡 合子‐高林寺遺跡)
律令社会”の出土遺物のなかで、緑釉陶器はその色調といい、「輪花」・「花文」といった装飾といい、”華ひらく”という形容にふさわしいものだと思う(軒丸瓦などにも古代の”華やぎ”を感じるけれど)

 

~講演会会場で~

高座郡家の遺構配置の空中写真

 

「厨」墨書土器
講演会の会場では、「厨」墨書土器の出土地点を確かめることができなかったけれど、おそらく「郡庁院」と「館・厨」の西側(北稜高校の校舎の跡地)で出土したものではないだろうか? 
以前、西方遺跡(下寺尾官衙遺跡群)の平安時代の溝 - enonaiehon (hatenadiary.jp) のなかで、郡庁の西側で検出された区画溝の年代(9世紀後半~10世紀)に期待したように、この「厨」墨書土器の年代がもし9世紀代であれば、改めて高座郡衙の廃絶時期を見直す資料になるのでは?…と思い、ワクワク?した。

 

2018年12月の旅から。

2024年1月5日の樹々(文化公園で)

 

2024年…本当に大変な年明けとなった。

2011年3月11日、博物館近くの交差点で、足元が大きく揺れ動き、空の電線が大きく波打つのを見て、この世界が一変したように感じた。” ゆぁーん ゆょーん ゆやゆよん ”……そんな空中ブランコのような)揺れ方だったと思う。あの時、世界は一変した。

日本海側の揺れが、太平洋岸まで伝わった今回の大地震
2018年末の旅で眼にした能登半島の風景も、今や一変してしまったに違いないのだ。

能登の海と陸① - enonaiehon (hatenadiary.jp)
能登の海と陸② - enonaiehon (hatenadiary.jp)
能登の海と陸③ - enonaiehon (hatenadiary.jp)

 

あの旅で、輪島市の「いろは蔵」に立ち寄り、地元の方から「能登半島沖地震」の経験談を聴いたことを、今、不思議な気持ちで思い出す。
あぁ…あぁ…いったいなぜ?

あれから5年経った。
今回の地震と火災によって、あの「いろは蔵」から眺める対岸の姿は…と思わないではいられない。自分の無力が口惜しい。

 

 

2024年1月1日の能登地震によって焼失した範囲国土地理院推定による)

 

【2018年12月の旅から】
輪島市朝市周辺の案内図

 

朝市通りで

朝市通りで(洋風建築の旧イナチュウ美術館)

 

風呂屋小路で


朝市通りの突き当たりの家並み


河原田川と対岸の家並み(「いろは橋」のたもとの「いろは蔵」から)

 

御仮屋小路で

 

塗師の家が建つ浜通り


姫神社が建つ浜通り

 

言葉では何もできない。思い出し、祈るだけの日々。

 

 

 

 

 

元旦の海。

 

2024年になった。
朝方、夢うつつとなって寝坊をした。
外界では、すでに新年の日常が始まっていた。

急いで、干支飾りをウサギから龍に置き換える。
(友人の手作りの人形に、それぞれ『一年ありがとう…これから一年よろしく…』とあいさつした。)

午後、南向きの部屋は22度近くまで上がった(昨夜は、蚊の音で目が覚め、まさか?と驚いたことを思い出した)

午後になって、ぶらぶらと海に向かった。
風は青い空を飛び回り、空気を心地よく冷やしている。

こんな冬の日の風に生まれ変わったらどんなにいいだろう…心からそう思った。

 

元旦の海に着く。
青い水平線は大島の島影を取り戻し、西の稜線には富士の姿がよみがえっていた。

浜辺の人々も静かなシルエットで、スタートしたばかりの新しい時間を確かめている。

渚を見渡すと、29日に見かけた円錐形の砂のモニュメントは跡形もなく消えていた。

砂丘の高まりに集められた流木の一つに腰かけて、平塚の海を眺める。
ゆっくり座って海を眺める…いつになく『ベニスに死す』状態の時間だ…。
(リド島というところに行ったことはないけれど、平塚の海とそう変わらないのかも?)

 

2024年の世界が、どうか平和を寄り戻せますように。

 

 

 

渚の新しいモニュメント

 

海への通りには、恒例の駅伝の幟が今年も並ぶ

 

【追記】
帰宅後、新聞を読んでいて、頭が揺れてきて『ひどい目まいだ…大丈夫だろうか、こんな目まい…』と思った。じきにカタカタと音がして地震なのだと気がついた。

海岸で海を眺めながら『最近、大きな地震は無いなぁ…今、あの時のような地震があったら、この海はどうなるんだろう…』などと思ったばかりだった。
どうか、大きな被害になっていませんように。