たどりついた厳島神社には「いそのかみ寺と良因寺」という解説板が立っていた。
その解説のなかに素性法師は登場せず、小野小町と僧正遍昭の歌が掲げられていた。
そこで、改めて「良因寺」と「石上寺」について図書館で調べ直した。
その解説のなかに素性法師は登場せず、小野小町と僧正遍昭の歌が掲げられていた。
そこで、改めて「良因寺」と「石上寺」について図書館で調べ直した。
今回調べた各書に記された諸説を要約・抜粋させていただくと、次のようになる。
まず、『和歌の歌枕・地名大辞典』(おうふう 2008年)では
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「石上寺」
(1)天理市石上町にあった寺
(2)天理市布留町にあった良因寺。または良峰寺と呼ばれた良峰氏縁(ゆかり)の寺で、遍昭や息子の素性が住んだ寺。
(3)天理市櫟本町にあった在原業平縁(ゆかり)の寺
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(1)天理市石上町にあった寺
(2)天理市布留町にあった良因寺。または良峰寺と呼ばれた良峰氏縁(ゆかり)の寺で、遍昭や息子の素性が住んだ寺。
(3)天理市櫟本町にあった在原業平縁(ゆかり)の寺
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また、『奈良県の地名』(平凡社 1981年)では
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*石上寺跡:現・天理市石上町。
○「石上寺田五町三反百四十歩七条四里十六坪(中略)五里十三坪」(「興福寺雑役免帳」1070年は、現・上総町近傍に相当。【註:上総町は石上町の西に隣接。】
○石上町小字寺内から奈良時代の古瓦が出土。【註:石上廃寺跡。石上町の西端部、上総町に隣接。】
○「磯上村ニ大寺ノ跡アリ」(幕末の北浦定政の「興福寺資材帳評註」)【註:北浦定政(生没年1817~1871)】
*良因寺跡:現・天理市布留町。石上神宮の西北、布留川の北岸に位置。
○「素性法師、応住良因院」(「扶桑略記」898年正月条)【註:『扶桑略記』の成立は平安末期(11世紀末以降?)】
○「いそのかみといふ寺に詣で、日の暮れにければ夜あけてまかり帰らむとてとどまりて此寺に遍昭侍ると人の告げ侍りければ、物いひ心みむとていひ侍りける」(「後撰集」小野小町の和歌の詞書)の寺は遍昭・素性ゆかりの寺として伝えられるが、創建年代不詳。【註:『後撰和歌集』の成立は平安中期(10世紀中葉?)】
○「良因寺在石上布留村、曰石上寺、又名良峯寺、今呼宵薬師堂(中略)、僧正遍昭俗姓良峯云々」(「大和志」)【註:『大和志料』の成立は1914年)
○「素性法師、応住良因院」(「扶桑略記」898年正月条)【註:『扶桑略記』の成立は平安末期(11世紀末以降?)】
○「いそのかみといふ寺に詣で、日の暮れにければ夜あけてまかり帰らむとてとどまりて此寺に遍昭侍ると人の告げ侍りければ、物いひ心みむとていひ侍りける」(「後撰集」小野小町の和歌の詞書)の寺は遍昭・素性ゆかりの寺として伝えられるが、創建年代不詳。【註:『後撰和歌集』の成立は平安中期(10世紀中葉?)】
○「良因寺在石上布留村、曰石上寺、又名良峯寺、今呼宵薬師堂(中略)、僧正遍昭俗姓良峯云々」(「大和志」)【註:『大和志料』の成立は1914年)
*良因名(みょう):良因院は良因寺として現布留町東部辺りに所在したものと考えられる。
○田倍南庄・檜垣本庄の不輸免田畠に「良因院田」(「興福寺雑役免帳」1070年)
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○田倍南庄・檜垣本庄の不輸免田畠に「良因院田」(「興福寺雑役免帳」1070年)
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「石上寺址」
*今山辺村に石上寺址二所を伝へり…一は大字石上に在り…一は大字布留に在り…二説を参照するに、石上の二寺共に蓋王氏造立の貴寺なり…
○「磯上寺は磯上村にて、在原山本光明寺と号し、在原業平朝臣の住まはれし地に立られける也、拾介抄に磯上寺は宝蓮寺と号すと見えたれば何の代に本光明寺と改めたるにや。」(「旧跡幽考」)
【註:『大和名所記 和州旧跡幽考』の成立は1681年。『拾介抄』の成立は原型が鎌倉中期。】
○「良因寺、また良峰寺石上寺と曰ふ今宵(コヨヒ)薬師堂とも云ひ布留に在り、天長年中善守法師住持す、後僧正遍昭其子素性并に爰に幽居す良峰氏なり。」(「名所図絵」)
【註:『大和名所図会』の成立は1791年。天長年中は824~833年。】
○「治安三年、入道前大相国留宿東大寺、奉礼大仏、次拝興福寺、次御元興寺、次御大安寺、次未時御宝蓮寺(字石上寺)覧給下八相、次御山田寺。」(「扶桑略記」)
【註:治安三年は1023年。入道前大相国は入道太政大臣藤原道長。1023年10月17日~11月1日、大和国七大寺を参詣し帰京。宝蓮寺参詣は18日14時頃か。『扶桑略記』の成立は平安末期(11世紀末以降?)】
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*今山辺村に石上寺址二所を伝へり…一は大字石上に在り…一は大字布留に在り…二説を参照するに、石上の二寺共に蓋王氏造立の貴寺なり…
○「磯上寺は磯上村にて、在原山本光明寺と号し、在原業平朝臣の住まはれし地に立られける也、拾介抄に磯上寺は宝蓮寺と号すと見えたれば何の代に本光明寺と改めたるにや。」(「旧跡幽考」)
【註:『大和名所記 和州旧跡幽考』の成立は1681年。『拾介抄』の成立は原型が鎌倉中期。】
○「良因寺、また良峰寺石上寺と曰ふ今宵(コヨヒ)薬師堂とも云ひ布留に在り、天長年中善守法師住持す、後僧正遍昭其子素性并に爰に幽居す良峰氏なり。」(「名所図絵」)
【註:『大和名所図会』の成立は1791年。天長年中は824~833年。】
○「治安三年、入道前大相国留宿東大寺、奉礼大仏、次拝興福寺、次御元興寺、次御大安寺、次未時御宝蓮寺(字石上寺)覧給下八相、次御山田寺。」(「扶桑略記」)
【註:治安三年は1023年。入道前大相国は入道太政大臣藤原道長。1023年10月17日~11月1日、大和国七大寺を参詣し帰京。宝蓮寺参詣は18日14時頃か。『扶桑略記』の成立は平安末期(11世紀末以降?)】
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以上から、「良因寺」と呼ばれる寺と「石上寺」と呼ばれる寺とが、重なって伝承されていることは理解した。
歌人相模は11世紀当時の「良因といふ寺」「よしみねの寺」を訪ねた。
その寺があった場所は、布留町の「良因寺跡」(現・厳島神社)であるのかどうか…その多少の手がかりを雑駁な理解力でまとめてみた。
歌人相模は11世紀当時の「良因といふ寺」「よしみねの寺」を訪ねた。
その寺があった場所は、布留町の「良因寺跡」(現・厳島神社)であるのかどうか…その多少の手がかりを雑駁な理解力でまとめてみた。
*歌人相模の初瀬参詣時期(11世紀前葉と推定)に近い情報は『後撰和歌集』、『興福寺雑役免帳』、『扶桑略記』だろうか。
*10世紀中葉(?)成立の『後撰和歌集』からは、9世紀後半に「いそのかみといふ寺」に出家後(850年以降)の僧正遍昭(生没年816~890)が住んでいたらしいこと…少なくとも、「いそのかみといふ寺」と遍昭とは何らかの係わりがあったこと…が分かる。
*10世紀中葉(?)成立の『後撰和歌集』からは、9世紀後半に「いそのかみといふ寺」に出家後(850年以降)の僧正遍昭(生没年816~890)が住んでいたらしいこと…少なくとも、「いそのかみといふ寺」と遍昭とは何らかの係わりがあったこと…が分かる。
*平安末期成立の『扶桑略記』からは、9世紀末時点で「良因院」に素性法師が住んでいたことが分かる。
*9世紀後半の僧正遍昭と同様、「石上寺」に素性法師(生没年:9世紀中葉?~10世紀初頭?)が住んだのかどうか?
(素性法師は9世紀末時点で、父・遍昭ゆかりの「石上寺」から「良因院」に移っていたのか?)
*1070年の『興福寺雑役免帳』からは、「良因院」が現・布留町東部に比定される。
*平安末期成立の『扶桑略記』の宝蓮寺は「石上寺」である可能性。
(歌人相模の初瀬参詣時の11世紀前葉頃、「良因院/良因寺」は布留町に、「石上寺/宝蓮寺」は石上町に、それぞれ別個に存在したのだろうか?)
*9世紀後半の僧正遍昭と同様、「石上寺」に素性法師(生没年:9世紀中葉?~10世紀初頭?)が住んだのかどうか?
(素性法師は9世紀末時点で、父・遍昭ゆかりの「石上寺」から「良因院」に移っていたのか?)
*1070年の『興福寺雑役免帳』からは、「良因院」が現・布留町東部に比定される。
*平安末期成立の『扶桑略記』の宝蓮寺は「石上寺」である可能性。
(歌人相模の初瀬参詣時の11世紀前葉頃、「良因院/良因寺」は布留町に、「石上寺/宝蓮寺」は石上町に、それぞれ別個に存在したのだろうか?)
以上、いまだ問題・疑問は解決できていないが、現時点での覚書とした。