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私の第三十四夜をつづります。

六ノ域遺跡第20地点とは?

 

17日、「第46回 神奈川県遺跡調査・研究発表会」に出かけ、県内各地の新しい調査結果を聴くことができた(コロナ禍を経て、県考古学会の活動に久しぶりに参加できたことが嬉しかった)

なかでも平塚市・六ノ域遺跡第20地点について、2年前の現地見学会以来の詳しい情報に接し、心が躍った(国際文化財株式会社・土 任隆氏による発表のなかでは、8c前半~11世紀以降・中世までの8期にわたる遺構変遷図まで提示されたのだった)

相模国府域の中枢域に位置する六ノ域遺跡は、官衙関連遺跡の一つとして『平塚市史』のなかで検証されて以降、その性格・位置付けについて、新たに焦点が当てられることはなかったように思う。

素人の私は、ことに掘立柱建物・竪穴建物が密集する第3・第4地点の全容について未消化のままで、”妄想”の糸口を第3地点出土の「住」箆書土器(須恵器蓋 転用硯 7c末~8c初めの2号竪穴住居跡出土)に求め、次のような記事を書き留めるだけだった。

☆ 「稲荷前A遺跡第4地点」~その第4砂丘列東端上の位置~ - enonaiehon (hatenadiary.jp)

☆ 六ノ域遺跡第20地点 - enonaiehon (hatenadiary.jp)

 

しかし今回、第20地点で大規模な竪穴建物(18号竪穴建物跡:1辺10m余、7c後半~8c前葉の遺物や畿内産土師器坏を出土)が検出されたり、11c初めの八稜鏡が出土しただけでなく、特殊な遺物集中遺構、区画的な溝や柱穴列が存在し、4点もの「守」墨書土器、銅埦蓋、飛雲文軒平瓦などが出土することなど、調査の概容が報告されたことで、六ノ域遺跡が注目すべき遺跡であることを改めて認識させられた。

そして、第3・第4地点などの報告書をきちんと読むことで、その姿を見直してみたいと思った(その結果、第3地点の掘立柱建物群が、大住評家に係るものでは?といった妄想の可能性を確かめることができればなぁ…)

その手始めとして、第20地点の現地見学会で撮影した「守」墨書土器の文字をトレースしてみた(残念ながら、撮影した写真には展示場の屋根の影が映り込み、墨書文字が読み取りにくかったので)
あと3点の「守」墨書土器を実見できる機会はあるのだろうか。それを楽しみに、まずは過去の報告書から読み直してみよう…。

 


墨書土器の文字のトレース
(現地見学会での撮影写真をもとにトレース)
今回「守」墨書土器として報告された4点のうちの一つ。
(撮影写真を見直しても、『おそらく土師器甕…?』と覚束ないのが素人の悲しいところだ。この墨書土器の時期はいつ頃なのだろう?)


瑞花双鳥文八稜鏡(六ノ域遺跡第20地点出土)
六ノ域遺跡第20地点の遺物については、現地見学会や平塚市博物館の速報展で、撮影やSNS掲載について制限があった。
上掲の写真は、神奈川県立歴史博物館(『華ひらく律令の世界』展 2024年)で展示された際に撮影したもの。
(11c頃の資料ということなので、歌人相模・大江公資の相模国滞在時期に係わるかもしれず、その埋納意図は?と興味が湧く。)

 

なお、「飛雲文軒平瓦」について書き留めた記事も思い出したので、ここに再掲しておきたい(自分で書きながら、すぐに忘れ去ってしまうので…やれやれ)
☆ メモ:相模国府域内:飛雲文軒平瓦・単弁六葉蓮華文軒丸瓦 出土地点 - enonaiehon (hatenadiary.jp)

 

冷たい雨が降りやんだら。

 

お彼岸を過ぎれば桜も咲きはじめ…とはならず、冷たい雨の日が続いている。

17日、横浜に出かけたついでに県立図書館で本を借り、桜木町駅に向かう途中でよそ見をして段差に躓いた。
『アッ…ここで転びたくない…何とか姿勢を戻さなくては…』と、前に倒れてゆく体にブレーキをかけ、精一杯踏みとどまろうとした(ごく短い時間のはずなのに、無駄な抵抗を試みる間、時間がスローモーションのように流れた)
結局、両手を地面について転び、後ろを歩いていた若者に「大丈夫ですか… 大丈夫ですか?」と気遣われ、恥じ入った。

果たして、翌日には脇・背中・腰の筋が傷みはじめ、70代の体は一週間かかってようやく立ち直った。

それでも、県立図書館で借りてきた本は、私の干からびた脳味噌をほぐしてくれそうでありがたい。冷たい雨が降りやんで桜がほころびはじめたら、凝り固まった身体のほうも、ほぐし直さなくては…。

 

 

県立図書館前の紅葉坂から(3月17日)

 


冷たい春の雨と人魚姫(3月24日)

薔薇の葉と雨粒(3月24日)

 

何年ぶりか…横浜市歴史博物館へ。

 

2日、横浜市歴史博物館で開かれている「文化財展」に出かけた。
1月17日に「横浜のみほとけを語る」を聴いてから季節は進んだはずなのに、横浜の風は冷たく、博物館前の街路樹も寒々としていた。

何年ぶりだろう…久しぶりの横浜市歴史博物館だった。
展示室に入り、修理が完成した「横浜のみほとけ」たちにお目にかかる。

やはり、仏様を実際に拝する機会は貴重だ。
会場の「みほとけ」たちは、1月に見た展示パネル上の印象とはほとんど別の「みほとけ」として眼の前に在った。

向導寺の「みほとけ」の浅い輪郭線で表現されたような目鼻立ちは、仏像というよりシンプルで優しい線描画のように生き生きとしている。寶林寺の「みほとけ」は大きさ以上の存在感でまとまっている。近づいてのぞき込むと、思わず衣文の流れに引き込まれるような気がした。

また、證菩提寺の「みほとけ」も、両脇侍像を従えた三尊像として間近に拝することができた(素人の第一印象として、高みに座す阿弥陀如来像に比べて、両脇侍像がややこじんまりしているようにも感じたけれど、三尊像という様式の厳かさには、やはり両脇侍像の控えめな姿がふさわしいように思えてきたのだった)

そして、山本氏の講座のなかで證菩提寺とその三尊像について学んだあと、再び展示室に戻った時には、仏像として拝するというより、”岡崎義実が「源義朝菩提堂」を建立し、このように立派な形式の三尊像が作られ、證菩提寺造立に至ったのか…”という別の感慨が湧いたりした(12世紀の平塚には、頼朝より早い時期、鎌倉・亀谷に菩提寺を造立する志と力を持った人が生きていたことを、證菩提寺阿弥陀三尊像という形を通して実感することになった)


この日の山本氏の講座では、改めてその学問に対する誠実なお人柄を感じるに至った。また、この何十年か(一貫性も無く、雑多でとりとめない興味に引きずられて)さまざまに学ぶ機会を得てきたけれど、11世紀~12世紀という時代が、このような形で顕われてくることなど想像もしなかったなぁ…と思った一日だった。。

 

木造阿弥陀如来坐像泉区岡津町 向導寺 11世紀 像高83.6㎝)
写真右には、右耳の字形の溝)の始点位置に、講座で習った「耳珠」(豆粒のようなふくらみ)が見てとれる。

 

釈迦如来坐像(南区永田北 寶林寺 12世紀 像高51.9㎝)
目を凝らして切金文様を探したけれど、私のザル目では確認できなかった(また、まったく関連の無い”不埒”な連想として、両足の前に流れ出すように広がる衣文の襞を見て、餃子を作るイメージが浮かんでしまった…)

 

 

阿弥陀三尊像栄区 證菩提寺 平安時代 安元元年〔1175〕頃か 像高‐阿弥陀112.9㎝ 左脇侍105.3㎝ 右脇侍105.8㎝)
両脇侍像は天女のように優美で華奢な印象。こうした仏様たちに義朝や真田義忠が優しく迎えられることを願う気持ちが伝わってくる。

 

向導寺・寶林寺・證菩提寺の「みほとけ」の解説



 

 

 

メモ(5):「田」墨書土器とは?

 

2月がまたたく間に過ぎてしまった。
「田」墨書土器とは?…何のために誰が?…とウロウロしながら。

そのウロウロのなかで、土器などに墨書する行為が、仮に畿内から地方に伝わったものであるならば、「田」墨書土器についても、畿内及び畿内以東の遺跡からの出土数を見比べることで、何かしら読み取れることがあるかもしれないと思った。
そこで、現在の都道府県別の出土数(明治大学 日本古代学研究所「墨書土器・刻書土器データベース」)をもとに、次のような地図を作ってみた(便宜的に、北は宮城・山形まで、西は京都・大阪までの範囲の地図にした。なお、データベースは「田」一文字のほか、多文字の資料も含めて集成している)

【個人的map:「田」関連墨書・刻書の分布】
          参考資料:明治大学 日本古代学研究所「墨書土器・刻書土器データベース」

 

地図を作りながら、印象に残ったことをメモ書きしておく。

◆福島・宮城両県では、

〇「田」関連墨書文字瓦(福島:5点、宮城83点)のみで、「田」関連墨書土器が皆無であることが際立つ。
陸奥国政庁・多賀城が所在する宮城県からの出土が、8世紀を中心とする文字瓦(陽刻・押印)で占められる。
〇福島・宮城が「田」関連墨書土器の空白地域…データベース上ではゼロでも、実際には存在するのかもしれないが…であるのはなぜか?(なぜ、坂東とは異なる様相を示すのか? 宮城県福島県・愛知県などが、「田」関連墨書土器の空白地域…そもそも墨書土器そのものの空白地域?…であることをどうとらえればよいのか?)

◆神奈川県の近隣県では、

〇千葉県の出土数(全411点)は圧倒的で、文字瓦2点・墨書土器409点。
多量の墨書土器のほとんどは竪穴住居跡から出土。
「田」一文字の墨書土器の早い時期の資料は8世紀中(中頃? or  中葉?)
文字瓦2点は上総国分尼寺と真行寺廃寺(武射寺‐武射郡家周辺寺院)からそれぞれ1点出土。

群馬県(全162点)は、文字瓦79点国分寺国分尼寺や上植木廃寺・山王廃寺などから多く出土)・墨書土器83点。
文字瓦は「田」一文字のほか、「山田」・「薗田」・「八田」など二文字が多い。

〇栃木県の出土数(全93点)は、文字瓦44点(8世紀前半 国分寺官衙遺跡などから多く出土)・墨書土器49点。
墨書土器の時期は平安時代がほとんど。
文字瓦は「田」一文字のほか、「矢田」など2文字以上も多い。

茨城県(全92点)は、文字瓦8点(8世紀前半のみ 田谷廃寺跡といった官衙遺跡などから出土)・墨書土器84点。墨書土器のほとんどは竪穴住居跡から出土。
「田」一文字の墨書土器の早い資料は8世紀後半。
文字瓦は「田」を含むもの岡田」「津田」「根田」など)のみで、「田」一文字の資料はゼロ。

〇埼玉県(全107点)は、文字瓦8点・墨書土器99点。墨書土器は、北島遺跡、将監塚・古井戸遺跡など大規模集落跡や、豪族にかかわる可能性のある遺跡からの出土を含む。墨書土器の時期は平安時代が中心。
文字瓦は「田」一文字の資料が2点、6点が「若田部」・「山田」など2文字以上。

〇東京都(全76点)は、文字瓦11点・墨書土器65点。
墨書土器は国府関連遺跡や国分寺跡・国分尼寺跡から、文字瓦は国分寺関連遺跡からの出土が多い。
「田」一文字の墨書土器の早い時期の資料は8世紀前半、8世紀中頃。
文字瓦は「田」一文字の資料が2点、9点が「蒲田」・「長田」など2文字以上。

〇神奈川県(全108点)は、文字瓦2点・墨書土器106点。
墨書土器は、平塚市の真田・北金目遺跡群から42点、茅ケ崎市の北B遺跡から26点(報告書では25点)(計68点)、全体の6割が大住・高座両郡の水辺の遺跡から出土し、時期的には真田・北金目遺跡群(1区SC004水場遺構 8世紀中葉)が北B遺跡(1区1号遺物集中区/旧河道 9世紀中葉)に先行している。
文字瓦は多文字(”粘土”を意味する「石田」を含む)の2点小田原市・千代廃寺 表採)。

静岡県(全81点)は、墨書土器81点に対し文字瓦はゼロ。時期は奈良時代に集中。
出土地には、伊場遺跡・城山遺跡(敷地郡衙に関連)、御殿・二之宮遺跡遠江国府推定地)、坂尻遺跡遠江国佐野郡衙に関連)など、官衙関連遺跡が名を連ね、御殿・二之宮遺跡からは「田」一文字の墨書土器5点が出土。

京都府奈良県滋賀県大阪府の墨書土器で時期的に古い資料例として、次のようなものがある。

京都市木津川市馬場南遺跡:「田」奈良時代 墨書 土師器埦 流路)
*なお、「田」一文字の墨書土器とは性格が異なるかもしれないが、より古い資料として、日ノ岡堤谷須恵器窯跡(山科区)の
「奉田田加米」(飛鳥時代 刻書 須恵器平瓶 「加米」は「かめ」と読む?)の事例がある。

奈良市平城京:「田」2点奈良時代前半 墨書 須恵器皿・須恵器坏 平城宮外の官衙的施設…「大学寮」か?…の大規模土坑)

甲賀市(宮町遺跡 紫香楽宮跡推定地):「田」(8世紀中頃 墨書 須恵器坏 溝)

〇八尾市(池島・福万寺遺跡):「田」(8世紀中頃 墨書 土師器坏 弥生時代後期から水田経営が継続する遺跡) 

以上のように、”畿内”の「田」墨書土器の古い資料は、奈良時代前半あるいは8世紀中頃の時期となる。
とすれば、平塚市の真田・北金目遺跡群の「田」墨書土器(8世紀中葉)は古手の資料例と言えるだろうか?

◆こうして、一部の地域について大雑把に眺めてきて、ぼんやり浮かんできた個人的イメージは、

都城から地方へ墨書土器を使った祭祀的行為の様式が伝わってきた…というよりは、地方の人々が都城で墨書土器を用いた祭祀的行為をそれぞれ学び、都城から故郷に戻ったあと、地元でそれぞれ再現するに至った?
*「田」関連墨書土器の多様性というものは、人々の”学び”の多様性、”学びの再現目的”と”学びの再現様式”の多様性から生まれた?(千葉県などではかなり独自に展開し広がった?) 
*「田」関連墨書土器を使った祭祀的行為の主体者は、少なくとも、都城でそれらを学ぶことが可能な人々だった?(郡司階級や開発豪族など?)

 

 

 

まぶしい海。

 

26日、待ち望んでいた明るい光に誘われて海に向かった。

海までの真っすぐな通りを、ゆっくりと陽なたを選んで歩いた。朝晩の冷え込みを忘れてしまって、思わず『春だなぁ…』とうっとりする。

浜に着く。
キラキラ輝く平らかな海の彼方から、白波が次々と押し寄せてくる。

大島はうっすらと大きな島影を浮かべていた。
西の空には真っ白な富士、そしてあっさりと雪化粧した箱根の山々。

子どもの頃から慣れ親しんできた平塚の海だ。いつも私を受け入れ、見送ってくれる。

 

2月26日の海

 

2月26日の大島


2月26日の渚に映る空と雲

 

2月26日の富士



 

ひさかたぶりの『第三の男』。

 

2月は家族の白内障の手術があり、いつもより緊張する時間を過ごすことになった。

通院の付き添いで横浜に通う日々。
その合い間の24日、平塚市図書館で上映された『第三の男』を観た。

子どもの頃に「テレビ名画座」で初めて『第三の男』を観て、ラストシーンの並木道の美しさに強く心惹かれた。『自転車泥棒』や『地下鉄のザジ』とともに、長く記憶に残った。
もう少し大人になって、アリダ・ヴァリの『かくも長き不在』も観た。
アリダ・ヴァリの二つの映画の背景に第二次世界大戦があり、無彩色の物語の端々に戦争の傷が残っていることは理解していたはずだった。ただ、どちらの映画でも私が涙を流すことはなかったと思う。
キャロル・リード監督の映画は、やはりテレビで『落ちた偶像』を観た…”偶像”の意味も分からずに。
あの頃に観た白黒映画はどれも何かしら、シンプルな記憶の形でずっと残った。)


図書館の一室で映画が始まった。
何度か観ていた映画だった。
しかし、ステージの白い幕に映し出された『第三の男』は、まるで初めて観る映画のように展開していった。
今や70代となった私には、仕切り直しが必要だった。
登場人物たちの顔つきや言葉のすべて、その役柄の意味に意識をとぎすませた。戦禍の傷跡が残るウィーンの街並みに眼を見開いた。細部まで見落とすまいと小さな画面に集中した。
アリダ・ヴァリは時に愛らしく時に誇り高かった。オーソン・ウェルズの表情は常にやわらかく繊細だった。

そして、終盤の下水道のシーンを、息を押し殺して見つめ続けた。緊迫感が高まってゆく。迷路のような空間で繰り広げられる”狩り”…傷つき追い詰められた”第三の男”は、対峙する友人に、誘うような眼差しを返す。

白黒の映画はなぜ美しいのだろう?

夜のウィーンの街の黒々とした物陰から、一瞬の窓明かりで浮かび上がった男のはにかむような表情。
その街の地下空間で逃げ場を失った男の誘いかける眼。
さらにはラストシーンの遠近法の美しい空間を刻んでゆく女の歩み。
映画は狡い…さまざまな余韻を残して去ってゆく…ホリーとともに、私たちは取り残される。

観終わった私の鼻から涙がツーと流れ落ちた。
今や70代ともなると、涙は頬だけではなく、鼻からも流れ落ちることを知った…。

 

図書館で映画会があることは知っていた。でも、実際に観たのは今回が初めてだった。
大昔に読んだ小説を読み直す。大昔に観た映画を観直す。どちらも年を取らないとできない。大昔に生きていたこと、まだ生きていることを思い出した映画会だった。

メモ(4):茅ケ崎市「北B遺跡」の墨書土器から。

 

10日、横浜に出かけた。その空き時間に県立図書館に立ち寄り、『香川・下寺尾遺跡群発掘調査報告書』(香川・下寺尾遺跡群発掘調査 2005年)を閲覧した。

高座郡家の祭祀場とされる「北B遺跡」の墨書土器の中に、「大住郡」あるいは「壬生」氏高座郡・大住郡の郡司層)とのつながりを示すような資料があるかどうか、興味があった。

結論として、残念ながら、その明確な資料は確認できなかった。
(次の表のように、該当資料は僅かな数に限られ、「壬生」氏との係りを裏付ける材料にはならないようだ。
なお「大住」・「住」については、全国36例中、平塚市相模国府域の12例、茅ケ崎市の香川・下寺尾遺跡群‐北B地区の4例が占めている〔明治大学 日本古代学研究所「墨書土器・刻書土器データベース」〕。かなり限定的な墨書・刻書例であり、奈良・平安時代高座郡・大住郡の官衙的な地域でまとまって出土することは、両郡…郡司層…の結びつきを考える材料の一つになるかもしれない…その全てが明確に「大住」・「住」と記された資料ではないので、いつものように妄想に終わる可能性が大きいのだけれど。)

ちなみに、相模国分二寺が置かれ、「壬生氏」の本拠地の一つとして想定される海老名市に本郷遺跡(古代の高座郡があり、「生」墨書土器の出土は56例となっている(神奈川県82例のおよそ7割を占める)

ただ、その時期については、出土数は僅かながら茅ケ崎市の北B遺跡(古代の高座郡がやや早いように思われること、また平塚市では真田・北金目遺跡群ではなく、国府域の遺跡(古代の大住郡)から出土すること…海老名市本郷遺跡と同じく、やや後れて出土すること…が興味深い。

なお、藤沢市南鍛冶山遺跡(古代の高座郡人面墨書土器(墨書文字「相▢▢大▢郡三宅郷(「相模国大住郡三宅郷)」)の出土例なども、古代高座郡と大住郡との郡を越えた関係性を物語る資料として想起される。

 

茅ケ崎市「北B遺跡」の「高」・「住」・「壬」・「生」・「主」墨書土器】   
             参考資料:明治大学 日本古代学研究所「墨書土器・刻書土器データベース」

          
一方、報告書では、9c中葉~後葉に出土のピークを迎える墨書土器について、次のように指摘されていた。
(前略)墨書内容は「田」が最も多い(25例)。類似する出土例としては真田・北金目遺跡群(若林ほか 1999)の水場状遺構が挙げられる。(後略)

この「田」墨書土器の出土例(私が確認できる範囲)は次の通り。
〔註:「田」のほかに、「田口」「田八」「城田」などの例も含めた。人名・地名の可能性がある多文字の例は除外した。〕

*真田・北金目遺跡群:42例(『真田・北金目遺跡群』平塚市博物館平塚市社会教育課 2013年)
相模国府域‐構之内遺跡:4例(『平塚市内出土の墨書・刻書土器』平塚市史編さん担当 2001年)
相模国府域‐六ノ域遺跡:1例(『平塚市内出土の墨書・刻書土器』平塚市史編さん担当 2001年)
相模国府域‐神明久保遺跡:1例(『平塚市内出土の墨書・刻書土器』平塚市史編さん担当 2001年)

 

そこで、古代相模国の「田」墨書土器出土遺跡を、下表のとおり、郡別にまとめてみた明治大学 日本古代学研究所「墨書土器・刻書土器データベース」)
出土遺跡は、地域的・性格的にやや偏った分布を示しているように思える。
「田」や「生」といった文字は、「十」「万」「大」「井」などのように、全国的に出土する墨書文字として、神奈川県内相模国の領域内)でも一般集落遺跡から数多く出土するのでは?と想像していたので意外に感じた。

 

【古代相模国の「田」墨書土器出土遺跡】
             参考資料:明治大学 日本古代学研究所「墨書土器・刻書土器データベース」

*郡別では、大住郡52例・高座郡40例(計92例)、愛甲郡5例・足下郡4例・鎌倉別1例(計10例)となり、相模国全体の9割を大住郡・高座郡が占める。
*出土遺跡には、相模国府域の遺跡群、香川・下寺尾遺跡群、本郷遺跡、南鍛冶山遺跡、下曽我遺跡や国府津三ツ俣遺跡など、各郡の代表的な古代の遺跡が名を連ねる。また”大きなムラ”の姿を示す草山遺跡など、内陸部の集落遺跡からも出土している。

このように、海老名市本郷遺跡(古代の高座郡では「生」墨書土器が多用され、茅ケ崎市北B遺跡(古代の高座郡平塚市真田・北金目遺跡群(古代の大住~余綾郡)では「田」墨書土器が多用されることをどう考えればよいのだろう? そこに、どのような人々が係わって活動していたのだろう?

農業開発に係るような”ムラ”の祭祀(地方豪族が係わる私的あるいは公的祭祀?)、都から波及される律令祭祀、人々の暮らしにまつわる民間信仰…実務的な墨書のほかにさまざまな要素が入り混じる墨書土器の在り方から、何を読み取ることができるのだろう。もう少し、妄想を続けてみたい。