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私の第三十四夜をつづります。

相模国府

緑釉陶器の花文①

2015年夏、博物館で「みどり色の器展」を見学したその時、まだ報告されていない新しい資料も何点か展示されていた。繊細で珍しい文様をもつもの、輝くほどに美しい「みどり色」のものがあって、なぜか胸が騒いだ。 さまざまな考古基礎資料集成の一環として、…

覚え書:長者窪遺跡第1地点

8月初め、「平塚市遺跡調査・研究発表会」に参加した。なかでも興味深かったのが「長者窪遺跡第1地点」の発表だった。 興味のポイントは次のようなものだった(註は、その後に調べ直してまとめたもの)。 *相模国庁の約1㎞北に位置する当該遺跡で初めての…

大磯町南仮宿遺跡の大型掘立柱建物

30日、横浜に出かけ、「神奈川県発掘調査成果発表会2016」に参加した。久しぶりに県内の遺跡調査の最新情報を見聞することができた。 なかでも、南仮宿遺跡Ⅷ地点(大磯町の警察署新築工事に伴う調査)で、奈良時代の大型掘立柱建物が検出されていることを知…

補記:高座郡衙のH1号遺物集中、遺構外の遺物のこと

1997年からサークルや講座などを通じて私が考古学を学んだ先生が、高座郡衙の年代について、2008~9年頃に主張されていたことの一つを書き忘れていた。 それは、下寺尾西方A遺跡の「H1号遺物集中」や「遺構外」の遺物が、高座郡衙が9世紀まで存続していた…

郡庁と館との関係

13日の茅ケ崎市遺跡調査発表会のあと、自問自答の堂々巡りが続いている。 今、もっとも知りたいことは、郡庁と館との時期的な相互関係だ。現時点で私が知り得る限り、これまでの研究者の方々の見解を要約すると、次の①~③のようなものになると思う。 【高座…

高座郡庁西側の遺構群から出土した遺物

13日の茅ケ崎市遺跡調査発表会では、西方遺跡第1次調査で出土した遺物も見学した。 1区の1号溝状遺構出土の鉄釘はしっかりと形を保っている。 墨書土器については、破片のために形状が分からず、また文字の判読も明らかでないようだった。素人の私は短絡的に…

高座郡庁の西側建物と溝状遺構

13日、茅ヶ崎市遺跡調査発表会に出かけた。下寺尾官衙遺跡群調査速報として「下寺尾西方遺跡第1次調査」の成果も聴くことができた。8月の現地見学会を見逃していた私にとって、高座郡庁の西側建物のあり方(西脇殿となる掘立柱建物や、郡庁西側を区画・囲繞…

シンポジウム(古代東国の地方官衙と寺院)を聴いて

雨も降らず涼しかった5日、一日がかりのシンポジウムに出かけてみた。 ”評から郡へ”という歴史の流れのなかで成立してゆく古代東国の郡家と寺院について、7つの報告と全体討論を聴きながら、自分の最近の不勉強を感じ続けた。7名の研究者の方々の報告が、次…

稲荷前A遺跡の調査

26日、友人の電話で、四之宮の泉蔵院近くで調査が始まっていることを知った。地図で地点を確かめると、家からは2~3㎞ほどの距離になる。幸いに涼しい日だった。図書館に行くついでに足を伸ばして現場をめざした。 2010年春から、相模国府の勉強からしばらく…

猿投産緑釉陶器の生産地へ

24日、みよし市立歴史民俗資料館の企画展に出かけた。展示スペースに所狭しと展示された灰釉陶器と緑釉陶器素地。そのなかで、黒笹14号窯・90号窯の緑釉陶器素地、亀ヶ洞窯の緑釉陶器にしぼって、時間をかけて見学した。これまで見る機会がまったく無かった…

左京(3)西寺跡から東寺へ

西院で淳和院跡を見学し、四条から歩いて九条の西寺跡・東寺へと向かった。 (9世紀中葉の大住郡・高座郡大領壬生直広主・黒成のこと、862年・865年に冷然院・淳和院に充てられた大住郡・愛甲郡の土地のこと、そして9世紀後半に連なる嵯峨源氏・仁明源氏の相…

右京(1)淳和院跡(高山寺・西院春日神社)

京都の旅の二日目。 前夜は本当に疲れ果てていた。 朝起きて驚いた。左手の甲が膨れてパンパンだった。指も曲げづらい。コンタクト・レンズを使った左眼の瞼も、みごとに腫れあがっている。 そういえば、夜中、手に強いかゆみを感じ、長い間、眠れなかったの…

鳥羽離宮跡(4)東殿から馬場殿へ

京都・鳥羽の旅を振り返り、東殿の安楽寿院と北向不動尊の写真を見ながら、つい12世紀の相模国府に寄り道をしてしまった。 不勉強のうえに記憶力が怪しくなっている私は、鳥羽離宮の景観(地形・歴史・遺跡・史跡・文化財など)についてほとんど知識の無いま…

鳥羽離宮跡(3)鳥羽の北向山不動院

相模国府について学び始めた十数年前、国府中枢域で謎めいた位置にあるように思えた二つの寺が、現在の四之宮にある高林寺と”北向観音”だった。高林寺の地点については寺院跡、あるいは国司館跡と想定する捉え方がある一方で、”北向観音”は考古学的対象とは…

相模守 藤原親弘周辺の動き

谷川茂氏による「親忠家と俊成」の詳細な年表をもとに、自分の忘備録として、藤原親弘に係るできごとを拾い出してみた。 ここで感じたのは、やはり”乳母の力”、そして多産の力だ。 歌人相模が強く子を希ったことを思い起こさずにはいられなかった。 12世紀の…

鳥羽離宮跡(2)安楽寿院と相模国

相模国府はなぜ、12世紀中葉には大磯へと移っていたのか。 その背景に12世紀の鳥羽院、相模国司、在庁官人たちの動きがあるのでは?と想像する一方で、相模国で起きた国府移遷が、なぜ同時代の他国では起きなかったのか、という疑問もある。 “休むに似たり”…

鳥羽離宮跡(1)12世紀前葉の相模国司と鳥羽

『大磯町史』の「第7章 相模の国司」の頁をコピーしたのは15年以上前のこと。書き込みと手擦れでボロボロになったコピーをまた眺める。9世紀代の相模国司に嵯峨源氏が続くことに気づいたのも、このコピーからだった。 平塚市内から大量に出土する緑釉陶器の…

石清水八幡宮(3)

石清水八幡宮参詣で、新たに興味をひかれた風物がいくつかあった。再訪する機会があれば、また今回とは別の眼で見ることができるかもしれない。それらを振り返って、旅の記憶にしたい。 安居橋から見る男山 15世紀末、道興という京都の僧侶が、『廻国雑記』…

石清水八幡宮(2)

相模国府とその八幡宮について、またそれに関連する事柄について、今の私の理解をまとめると次の通りだ。 ______________________________________ *11世紀前葉(1036年~)の相模国司に源頼義。11世紀中葉(1063年…

石清水八幡宮(1)

石清水八幡宮…子どもの頃、授業で知った仁和寺の老僧の逸話は、長く記憶に残った。 相模国府の勉強を始めてから、その石清水八幡宮の名に再び出会った。『相模国府とその世界』(平塚市博物館 1998年)の「Ⅰ相模国府研究史」(荒井秀規)に、石清水八幡宮文…

”巡礼みち”を歩く-飯泉そして多古-

2日朝、勝福寺(飯泉観音、弓削寺)の十一面観音像を拝するため、小田原に出かけた。 平安時代の十一面観音像を眼にし、また、”巡礼みち”(巡礼街道)の一部を歩くことができる貴重な機会だ。 (この”巡礼みち”は、明治20年測量の地図で見ると、国府津三ツ俣…

緑釉陶器の皿(秦野市寺山中丸遺跡)

18日、かながわ考古学財団の発掘調査発表会で緑釉陶器の接合片が展示されていた。秦野市寺山中丸遺跡1号住居跡の出土資料として、平瓦片とともに並べられ、その明るい黄緑色が一段と目立っていた。平塚市・茅ヶ崎市・伊勢原市出土の緑釉陶器は機会あるごとに…

緑釉陶器…雑感(5)

林B遺跡第2地点出土緑釉陶器の産地 今回、林B遺跡の緑釉陶器を他の緑釉陶器…とくに「猿投窯」と特定されているような資料と比べて見ることで、初めて意識したことがあった。それは (当たり前のことなのだけれど)、同じ陰刻花文でも、それぞれ違いがあると…

緑釉陶器…雑感(4)

~尾野善裕氏の講演「平塚市出土緑釉陶器の歴史的背景~なぜ大量の緑釉陶器が古代相模にもたらされたのか~」を聴いて~ 〔3〕緑釉陶器の輸送手段は? 尾野氏の講演を懸命に咀嚼しながら、ふと疑問に感じた点もあった。それは緑釉陶器の輸送手段についてだ…

緑釉陶器…雑感(3)

~尾野善裕氏の講演「平塚市出土緑釉陶器の歴史的背景~なぜ大量の緑釉陶器が古代相模にもたらされたのか~」を聴いて~ 〔2〕「正月歯固」そして「乞巧奠」 *「正月歯固」* 尾野氏の講演のなかで、「歯固め」という耳慣れない言葉が印象に残った。その儀…

緑釉陶器…雑感(2)

~尾野善裕氏の講演「平塚市出土緑釉陶器の歴史的背景~なぜ大量の緑釉陶器が古代相模にもたらされたのか~」を聴いて~ 〔1〕弘仁三年・六年の尾張国司“滋野家訳”のこと 『湘南新道関連遺跡Ⅱ』の報告書で、初めて尾野氏の論考を読んでから、すでに5年が過ぎ…

緑釉陶器…雑感(1)

平塚市出土の緑釉陶器について、今回の「みどり色の器展」や尾野氏の講演をきっかけに、また新たな疑問が生まれてきた。自分の楽しみ…“相模国府の時代”をさ迷う楽しみ…を持続させるために、これまでも気になっていたこと、新たな疑問など、とりとめなく思い…

なぜ相模国府、相模国司だったのか?

30日は、私にとって今夏唯一の”夏休みらしい一日”だった。 小さな会場で、ずっと楽しみにしてきた『平塚市出土緑釉陶器の歴史的背景~なぜ大量の緑釉陶器が古代相模へもたらされたのか~』(尾野善裕氏)の講演を、じっくりと聴くことができたから。 講演に…

「みどり色の器」展(8月21日~9月3日)

先日、平塚市博物館(寄贈品コーナー)で開かれている「みどり色の器」展を見学した。 市内出土の約1250点のなかから選び抜かれた緑釉陶器が華やかに展示されていた。 東博に貸し出されている優品、県が発掘し所蔵する資料、平博の常設展示品などを除いて、…

七ノ域遺跡第8地点の調査成果を聞く

13日午後、横浜で「神奈川県発掘成果発表会 2014」を聞いた。最後の発表は平塚市の七ノ域遺跡第8地点だった。相模国府域の北半部(第3砂洲・砂丘列上)中央に位置する七ノ域遺跡は、第2・第3・第6地点でそれぞれ掘立柱建物群が展開し、第2地点からは大型の…