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私の第三十四夜をつづります。

相模国府

林B遺跡の緑釉陶器(2)

~林B遺跡第2・第4・第6地点から出土した緑釉陶器(図化された104点)について~ 〔平塚市史 別編 考古 基礎資料集成2 『平塚市内出土の緑釉陶器』(平塚市博物館市史編さん担当 2001年)をもとに分類〕 〈1〉残存部で文様を確認できる点数 〈2〉残存部で輪…

林B遺跡の緑釉陶器(1)

相模国庁跡の北600mほどに位置する林B遺跡については、まず、『平塚市史 11下 別編 考古(2)』(平塚市 市史編さん担当 2003年)で、次のように分析されている。 *第2地点の緑釉陶器の大量出土 → 整然と保管されていた大量の緑釉陶器が、火災後に廃棄された…

相模国府周辺の緑釉陶器、そして9世紀後半の源氏長者

相模国府周辺から出土した緑釉陶器の時期と産地について、平尾政幸・尾野善裕両氏は『湘南新道関連遺跡Ⅱ』(㈶かながわ考古学財団 2009)のなかで、次のように書かれている。 「以上、出土傾向を概観した結果、相模国府周辺での緑釉陶器の出土の初限(原文ママ…

相模国司-9世紀後半の介・橘岑雄、権介・橘休蔭

830年代から始まる相模国司・橘氏としての橘 峯継・真直兄弟の登場を、父・橘 氏公、ひいては橘 嘉智子や仁明天皇に係る人事であろうか、と推定した。 その氏公・嘉智子・仁明天皇が、848年・850年と相次いで没する。その後の9世紀後半についても、相模国と…

仁明天皇時代の尾張国司と相模国司

「尾張における緑釉陶器生産に淳和院が関与していた」と想定する論考(『湘南新道関連遺跡Ⅱ』2009)を読んだ時点で、尾張国司のなかに相模国司や嵯峨源氏・仁明源氏と係わる人がいるのだろうか、と調べたことがあった。 結果、嵯峨源氏である源 弘(845年、尾…

相模国司・橘岑継と橘真直

相模国府域の9世紀の景観を明らかにしようと、これまで、多量の緑釉陶器の出土(遺跡別出土点数)、相模国司の顔ぶれ(嵯峨源氏・仁明源氏の連続補任)、大住郡大領・壬生直広主の異例な出世(従五位下、外従五位上まで昇進)について、自分なりに考えをめぐ…

追記:相模権守・源重之と”こゆるぎの磯”の歌

先に、喜び勇んで書きとめた自分の文に、いささかの不安と疑いが湧く。 はたして、源重之の”こゆるぎの磯”の歌に、「さがみにて」の詞書があること、それだけをもって、彼が相模国に実際に赴任した、と解釈してよいのだろうかと。 思えば、在任中(970年代)…

相模権守・源重之と”こゆるぎの磯”の歌

相模国府域15遺跡の消長の様相について、その遺跡別・時期別の竪穴建物軒数を見ると、大きく二つのグループに分けることができる。ピークが主として8世紀前半にある遺跡、主として9世紀後半にある遺跡、というふうに。そして、それらのほとんどの遺跡が10世…

大住郡関連墨書土器

これまで、平塚市域からは、相模国府域を中心として「大住」・「住」・「郡厨」・「大住厨」・「大厨」など、〝大住郡″の関与を示す墨書土器が20点以上出土している(2001年時点)。 一方、相模国を構成する他の郡からは、郡の関与を示す墨書土器として、「…

山王A遺跡第9地点の「厨」墨書土器

山王A遺跡第9地点の報告書で、8c4/4~9c前半頃の大型掘立柱建物(布掘り、6間以上×2間以上)から、「厨」墨書土器が出土していることを知った。 これまで相模国府域では、8c前半~9c前半にかけての「大住厨」「大厨」「郡厨」「国厨」「厨」の…

星形鋲と淳和院出土の飾り釘

坪ノ内遺跡第5地点出土の銅製頭部星形鋲はSB01から2点、P09から1点、遺構外から1点出土している。報告書では「華奢な作りで、飾り金具としての使用が適していると思われる。(中略)厨子のような建具の存在を想起させるものである。」とされている。 この…

12世紀後葉の白磁とかわらけ

今日も「真田・北金目遺跡群展」に出かけた。 墨書や11世紀前葉の資料についで、興味を惹かれた展示は、12世紀後葉のセット関係にある白磁とかわらけだ。同安窯とされた白磁の破片には、竜安寺の石庭のような細線の文様が施され、灰緑色に光っている(私には…

「方𦊆」墨書土器と「保」・「大夫」刻書土器

真田・北金目遺跡群展で、宮久保1区SG001出土の「方𦊆」墨書土器(8c中葉~後葉)を見ることができた。図録の解説では、「金目の一部が、当時は、「片𦊆」郷であった可能性」、「拠点的な祭祀場である「金目」郷で、「片𦊆」郷の人たちが祭祀をした可能…

相模国府と真田・北金目遺跡群

投票を済ませた日曜の午後、平塚市博物館に向かった。博物館の奥まった特別展示室では、「真田・北金目遺跡群展」、「平塚市文化財展」が一挙に繰り広げられている。この日をずっと楽しみにしてきた。 奈良・平安時代において、真田・北金目地域は相模国府と…

8c初頭の相模国庁

六月に入って、8世紀初頭~前半の時代に戻って”夢うつつ”の時間を過ごしてきた。相模と常陸の国庁創設について、簡単な比較表を作る必要に迫られたからだ。 結局、確認事項をまとめるのがせいぜいで、新たな疑問が増えただけで終わった。それでも、これまで…

12世紀の中村氏-”乳母の力”

昨年春、歌人相模が相模国の国司館(もしくは別邸か?)から伊豆山の走湯権現へと通った道について不毛な(今思えば…)想像をめぐらしていた。 そして一年後の今、平塚市の12世紀の不動明王立像を調べるなかで、当時の中村氏について関心を持った。そして、…

郡庁と正倉の時期

15日に群馬県太田市の天良七堂遺跡の現地説明会があることを知った。私が最後に訪れたのが2007年。その翌年、「史跡上野国新田郡庁跡」として指定されている。5年ぶりに現地に行ってみようと思いながら、情けないことに雨と寒さにめげてしまった。 現説には…

茅ヶ崎市の木簡と緑釉緑彩

2日、茅ヶ崎市遺跡調査発表会を聴き、居村B遺跡出土の木簡など、多くの出土遺物も見学することができた。 (毎回、見易くて、調査現場の特徴が伝わってくる展示をとても楽しみにしている。) 居村B遺跡については、今回発見された四号木簡に「貞観」の年号…

相模国庁の復元プラン

今週は月曜から相模国庁の配置プランを作る作業に没頭した。 かながわ考古学財団の報告書、石岡市教委による常陸国衙跡の報告書、奈良文研の『古代の官衙遺跡』などを机一面に広げる。 実際に検出された遺構は限られている。東脇殿跡、西脇殿跡の一部、掘立…

漆部伊波の富と力とは?

10月5日から始まった藤沢市の古代史講座に出かけた。一般市民の私が、文献から古代の歴史を読み解く世界に惹きつけられるようになったのは、この藤沢市(博物館準備担当)で長年にわたって行われている講座がきっかけだったと思う。発掘調査の現地説明会と同…

相模国府域で11世紀代に継続する竪穴建物群

28日の平塚市遺跡調査・研究発表会のなかで、相模国府域の天神前遺跡第16地点の報告があった。 この第16地点の北100mに位置する第8地点(掘立柱建物3棟、竪穴建物36軒、土壙墓5基など)では、「郡厨」墨書土器(8世紀後半)、「国厨」墨書土器(9世紀中葉)…

饒益神宝のこと

茅ヶ崎のシンポジウム『下寺尾官衙遺跡を考える』の中で、北B遺跡…下寺尾寺院跡(七堂伽藍跡)から駒寄川を挟んで南東に位置する…についても発表があった。 その北B遺跡の発表の中で、河道内祭祀遺物の一つ…皇朝十二銭”饒益神宝”…の余談として、「数が少な…

覚書:「大上」墨書土器3点について

これまでの研究成果に基づく相模国府推定域について、その地理的景観を大まかに捉えると、次のように要約できると思う。 *東西に延び、南から北に連なる砂州・砂丘列が、北・西側は渋田川、東側は相模川に画されること。 *国府域は、西に開く谷川(やがわ…

覚書:国府域東端の古代道(2)

相模国府域を東西に走る古代道の東端は、どこで相模川を渡河するのか。 国府の景観を考える時、常に立ち戻る教科書が『平塚市史11 別編考古(2)』(2003年)だ。 砂州・砂丘列とその凹地、自然堤防などの遺跡の発掘調査報告書をもとに、相模国府域の個々の…

覚書:国府域東端の古代道(1)

24日、相模国府域を探訪したなかで、国府域を貫く古代東海道の現状での最東端にあたるという山王A遺跡第6地点などにも立ち寄った。古代東海道の延長先と推定できる遺構が検出された経緯(道路状遺構そのものは未検出)と、その東延長ルートについて言及があ…

相模国庁域から八幡宮へ

24日、久しぶりに四之宮・八幡の地域を歩いた。これまで数多く訪れた国府域。何回訪れようと、そのたびに、自分の眼が何も観察していない、自分の頭が何事も正確に把握していない、と知ることになる。 ただ、今回の探訪会では、配布資料の新旧地形図を対比し…

覚書:「八幡(やわた)」をめぐって(2)

中世の「八幡」にあった神社(「八幡宮」)に係わる資料として『廻国雑記』という紀行文があることを知った。道興という京都の僧侶が、1486~87年にかけて東国を旅して著したという紀行文のなかで、相模国内の各地についても断片的に触れられていた。 平塚の…

覚書:「八幡(やわた)」をめぐって(1)

5月は『相模集』の世界、11世紀前半以降の相模国府の世界のなかで、うろうろ・もやもやしながら時間が過ぎた。 …12世紀半ばの相模国「旧国府別宮」について、その「(石清水八幡宮の所領)別宮」が成立したのはいつか。その八幡宮の勧請に(前身的な八幡宮と…

「国衙」について

2012.5.15 平塚の地で相模国府について学んできた私にとって、「国衙」の語は親しみが無い。概念の包摂関係としては、”国庁(政庁建物) < 国衙(政庁+官衙) < 国府(地域)”と捉えてきた。 一方で、私だけの勝手な使い分け…”律令国家的な「国庁」から、…

相模国府と「八幡宮」

2012.4.24 【11世紀代の八幡宮の位置を探る】 歌人相模の道から外れ、脇道で迷っている。現・平塚八幡宮の旧位置について、「四之宮・東八幡・西八幡」とする説が気になりウロウロする。八幡宮の旧位置が11世紀代の相模国府の位置と係わるのではないかという…