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私の第三十四夜をつづります。

歌人相模、そして伊豆山~箱根山

歌人相模が「竹淵」を目指した道(1)

今からおよそ一千年前…おそらく万寿4(1027)年頃、歌人相模は“神な月(10月)”に初瀬参詣を思い立った。そして、その旅で7首の歌を詠んだ。 6月初旬の私の旅では、その連作7首(歌番号104~110)のうち、109と110の歌が詠まれた道筋を追いかけてみた。 109…

歌人相模が見た「鍋倉山」

6月初旬の旅…久しぶりに歌人相模とともに歩きながら、とりとめのない問いかけが浮かんでは消えた。 『旅のなかで、貴方の思いは誰に(何に)向かっていたのですか?』 『旅を通じて、貴方の心に何か得るものがありましたか?』 『貴方の旅はどのような道筋を…

初島から伊豆山を眺めて

9日、初めて初島を訪ねた。洋上から、そして灯台から伊豆山~富士山を眺めた。初めて見る景色であるのに、もう既に視ていたような不思議な気持ちがした。 初島には初木神社があり、初木姫の伝説が記されていた。 以前、伊豆山神社についての興味から『走湯山…

大晦日に歌人相模を訪ねる

一年の終わりに、歌人相模の歌を掲げておこうと思う。 11世紀に生きた歌人相模という存在と、21世紀に生き続ける自分とのささやかな縁を、これからも細々とつなげていきたいと思うから。 ~『相模集全釈』(風間書房)から引用~ はての冬 280 思ふ事 月日に…

覚書:”静範”と”聖範”

歌人相模の足跡を訪ねるはずの旅…そのほとんどが寄り道ばかりだ。 その道草を誘うものは、「11世紀の伊豆」や「11世紀の相模」だったりする。 歌人相模の足跡をたどる手がかりが、「11世紀の伊豆」や「11世紀の相模」のなかにあるのではないかと、つい脇道に…

歌人相模の初瀬参詣ルート探訪の続き⑩:「竹渕」(たかふち)、そして四天王寺

6月が終わってゆく今、ようやく、旅のまとめの終点にたどり着く。 _________________________________________ 八尾駅南の細く古い道から国道25号に戻ったあと、志紀駅方向に向かう。途中の「天王寺屋地蔵」の地点…

歌人相模の初瀬参詣ルート探訪の続き⑨:「竹渕」(たかふち)、そして四天王寺

竹渕神社から国道25号に戻り、亀井町で古道に入り、再び国道25号に戻る。太子堂(大聖勝軍寺)経て、植松町で再び細く古い道に入ってゆく。そのゆるやかな波状の古い道筋は、かつて大和川本流であったとされる平野川の蛇行跡をなぞっているかのように思える…

歌人相模の初瀬参詣ルート探訪の続き⑧:「竹渕」(たかふち)、そして四天王寺

旅の目的を、”自分の眼と足で確かめること”としながら、そこにはどうしても、自分につごうの良い材料を求める…というバイアスがかかってしまうようだ。 今回の旅のなかで、平野川に架かる小さな「竹渕橋」から高安山を望みながら、歌人相模の初瀬参詣連作7首…

歌人相模の初瀬参詣ルート探訪の続き⑦:「竹渕」(たかふち)、そして四天王寺

竹淵(たかふち)といふ所あり 110 旅人は こぬ日ありとも たかふちの 山のきぎすは のどけからじな (『相模集全釈』から) 今回の旅は、歌人相模の初瀬参詣7首をしめくくる110の歌の場所を訪ねる旅でもあった。 ◇「竹渕」とはどこなのか? ◇「竹渕」が八尾…

歌人相模の初瀬参詣ルート探訪の続き⑥:「竹渕」(たかふち)、そして四天王寺

寛弘期に天王寺連作9首を詠んだ歌人相模は、実際に天王寺を参詣したのだろうか。もし参詣したのであれば、その機会は、下に示した初瀬参詣連作7首を詠んだ旅の帰路上ではなかったか? そして、その時期については、『相模集全釈』の「年表」を参考に、次のよ…

歌人相模の初瀬参詣ルート探訪の続き⑤:「竹渕」(たかふち)、そして四天王寺

旅から帰って、”荒陵山四天王寺”の周辺地域では、古墳時代の円筒埴輪などが発見されていることを知った。あの四天王寺の地に、かつて古墳が存在していたのだろうかと、わくわくとした気持ちになる。 また、西大門の石鳥居、亀の池の石舞台、亀井堂の石槽、宝…

歌人相模の初瀬参詣ルート探訪の続き④:「竹渕」(たかふち)、そして四天王寺

今回の旅を終えたあとも、四天王寺について、さまざまな情報をあれこれとつまみ読みした。 そのなかに、国宝『四天王寺縁起』は11世紀(1007年)に再建された金堂内で発見されたもの…というものがあった。 その「1007年」(寛弘4年)が、歌人相模が天王寺連…

歌人相模の初瀬参詣ルート探訪の続き③:「竹渕」(たかふち)、そして四天王寺

初めての四天王寺。 これまで私が抱いてきた”日本の寺”のイメージには当てはまらなかった。 開放的でどこかエキゾチック?な印象…市井の人々を受けとめる力が大きそうな…と言えばよいのだろうか。「へだてなき西の門」と詠まれた時代から、このような雰囲気…

歌人相模の初瀬参詣ルート探訪の続き②:「竹渕」(たかふち)、そして四天王寺

5月6日、天王寺駅から四天王寺に向かった。 2013年夏、初めて『相模集全釈』を手に取ってから、”天王寺”(四天王寺)とはどのようなところなのだろう…と思い続けてきた。いよいよ、その”天王寺”を訪ねることになったのだ。 『相模集全釈』のなかで、「流布本…

歌人相模の初瀬参詣ルート探訪の続き①:「竹渕」(たかふち)、そして四天王寺

これまで、歌人相模の初瀬参詣ルートを推定してみようと試行錯誤を繰り返してきた。 そして、昨秋には、その一部を歩いてみた(実際の道でも試行錯誤の連続で、あらゆる道を迷いながら歩いた)。 そして、その怪しげな探訪の雑感を何回かに分けてまとめてお…

伊豆山神社の「男神立像」と『走湯山縁起』の”権現像”⑩‐まとめにならないまとめ(3)

”まとめにならないまとめ”の続き 〔2〕伊豆山神社「男神立像」とは何か? 2012年に大磯と熱海で神像を初めて拝してから、神像の存在に関心を持つようになった。 そして、伊豆山神社「男神立像」の存在が大きくなっていった。 『あなたはだれなのか?』 伊豆…

伊豆山神社の「男神立像」と『走湯山縁起』の”権現像”⑩‐まとめにならないまとめ(2)

~ ”まとめにならないまとめ”の続き~ 〔1〕伊豆山神社「男神立像」の制作年代のまとめ 2012年の『熱海ゆかりの名宝展』では、伊豆山神社「男神立像」の制作年代は ◎「平安時代中期 11世紀」と紹介されていた。 この年代観はおそらく、 鷲塚泰光氏の論考(「…

伊豆山神社の「男神立像」と『走湯山縁起』の”権現像”⑩‐まとめにならないまとめ(1)

『相模集』(『相模集全釈』:1~597)の半分は、歌人相模が1020年代、走湯参詣で詠んだとされる歌…「走湯権現奉納百首及びその贈答歌」(:222~524)…で占められている。 約3ヶ月後、届けられた”走湯権現”からの返歌(:321~421)について、歌人相模は詞…

伊豆山神社の「男神立像」と『走湯山縁起』の”権現像”⑨

『走湯山縁起』巻第五…「〔按標題重複雖可疑姑存之〕 走湯山縁起第五」の部分…において、10世紀の堂社の変遷が記されている。縁起譚とは別の実録として受け止め、次のような一覧表をまとめてみた。 ~10世紀代の走湯山における堂社・神仏の造立~ ●:造立 ▲…

伊豆山神社の「男神立像」と『走湯山縁起』の”権現像”⑧

思えば、歌人相模は伊豆山参詣に際して、次のような思いを抱いていた。 ~『相模集全釈』より~ 「常よりも思ふ事あるをり、心にもあらで東路へ下りしに、かかるついでに ゆかしき所見むとて、三とせといふ年の正月、走湯に詣でて、なに事もえ申しつくすまじ…

伊豆山神社の「男神立像」と『走湯山縁起』の”権現像”⑦

『走湯山縁起』巻第五の一部目(”深秘”の巻)では、走湯山が次のように位置(意義)付けされているように思われた。 *「伊豆」を「東夷之境所」と位置付ける *走湯山のなりたち(地域の自然や信仰といった”地域のアイデンティティ”…他に適切な言葉があるの…

伊豆山神社の「男神立像」と『走湯山縁起』の”権現像”⑥

『走湯山縁起』巻第五は「走湯山縁起第五 深秘輙(すなわち)不レ可二披見一」の部分と、「〔按標題重複雖可疑姑存之〕 走湯山縁起第五」の部分の二部(?)が残されている。 前者は、伊豆山全体の地理的自然を俯瞰して、壮大なイメージを描き出す。それは伊…

伊豆山神社の「男神立像」と『走湯山縁起』の”権現像”⑤

『走湯山縁起』の「巻第四 雷電」の記事は、905年春から906年2月15日~3月上旬にかけての、ごく短い時間で展開し、932年5月に「伊豆守 菅原氏胤」が記したことになっている。 【註:「雷電金剛王子」の降臨後、906年3月上旬、一同が上京して上奏するくだりに…

伊豆山神社の「男神立像」と『走湯山縁起』の”権現像”④

『走湯山縁起』の巻第三では、真言宗・天台宗の僧が、9世紀初頭から10世紀初頭までの間に、次のように連続して登場する。 *嵯峨朝の記事(819年):東寺大和尚(弘法大師)が登場 *仁明~文徳~清和朝の記事(835・836・855・858年):賢安(甲州八代郡の…

伊豆山神社の「男神立像」と『走湯山縁起』の”権現像”③

『走湯山縁起』(巻第一~五)のなかの”権現像”を求めて、①~⑤(巻第一~二)の記事をたどってきた。 そして今、巻第三の記事をたどたどしく拾い読みしながら、”権現像”のイメージは、巻第三の成立までに、すでにある程度、図像化・可視化されていたのではな…

伊豆山神社「男神立像」と『走湯山縁起』の”権現像”②

先に挙げた『走湯山縁起』の①の記事(応神朝)では「円鏡」が出現し、②(仁徳朝)では「神霊附託」により「老巫」を通して「異域神人」・「日輪の精体」であることが語られた。 そして、続く③の記事(仁徳朝)では「老巫」が俗体に形を変え、次のように可視…

伊豆山神社「男神立像」と『走湯山縁起』の”権現像”①

『走湯山縁起』(巻第一~五)のなかで”権現像”の顕現と係わる記述部分を断片的に抜粋して①~②~…と羅列し、鷲塚泰光氏の論考(「伊豆山神社木造男神立像考」)の跡を少しずつたどってみる。 ______________________________…

伊豆山神社「男神立像」と”御衣木(みそぎ)”①

伊豆山神社「男神立像」の謎をめぐって、あれやこれやと妄想がふくらんでゆく。 自分で謎を作り出し、その謎について考えるなかで、喜んだり、がっかりしたり。 毎回、同じことを繰り返して飽きない。 自己完結的で、自家中毒的で…要するに暇つぶしの”癖(へ…

伊豆山神社「男神立像」の顔

~伊豆山神社「男神立像」の顔~ 伊豆山神社「男神立像」に魅きつけられてから、さまざまな疑問が散漫的に広がっていくばかりだ。 先に挙げた「履物」の爪先の形などよりも、ずっと基本的な疑問が立ちはだかっている。 *何の像で、何を祈るための像か? *…

伊豆山神社「男神立像」の履物

2012年7月、2016年2月と、伊豆山神社の「男神立像」を間近に見ては、歌人相模との係わりについて妄想を巡らしてきた。 そして、研究者の方々の知見に接することよって、自分の無知と勘違いに気づかされてきた。それでもなお、この「男神立像」に対する興味は…