enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

歌人相模、そして伊豆山~箱根山

大江公資の大和国山口庄

歌人相模の初瀬参詣に大江公資は係わっていたのだろうか…この疑問が生まれたのは、『更級日記』の作者の初瀬詣でに、作者の夫・橘俊通も同行したとうかがわせるような解釈があったからだった。 つまり、歌人相模の初瀬参詣の場合、その時期での大江公資との…

歌人相模の初瀬参詣ルート探訪⑨:”なら へまかりける時に、をとこ山にて”

今回の奈良の短い旅は、歌人相模の初瀬参詣推定ルート(河内国~「龍田道」経由)の一部を、実際に歩いて確かめてみたい、という気持ちが強かった。 そして、今回歩いたわずかな範囲に限って言えば、その想定と大きく食い違う材料は見えてこなかった。また、…

多武峰を訪ねる②『多武峰往生院千世君歌合』の”千世君”

およそ11世紀後半、 多武峰(現・談山神社)の往生院で、僧侶たちによって地味な歌合が催された。 その『多武峰往生院千世君歌合』には、「三番 叢露為玉 左 千世君」として、次の歌が掲げられている。 5 つきかげに みがけるたまと みえつるは はぎのうはば…

多武峰を訪ねる①桜井駅~談山神社~御破裂山

【旅のメモ】 _________________________________________ 9月17日(土)晴れ 7:30 宿のフロントに荷物を預け、桜井駅に向かう。5分とかからない。 *桜井駅南口バス停でバスを待つ。朝の風が吹く。 8:12 小ぶり…

歌人相模の初瀬参詣ルート探訪⑧:「ふるのやしろ」

奈良の旅の記憶が薄れないうちにと、「ふるの社」(石上神宮)…歌人相模の初瀬参詣7首のなかで、107の「良因といふ寺」・「よしみねの寺」の歌に名前が挙がる…についても、次の通り、書き留めてみた。 __________________________…

歌人相模の初瀬参詣ルート探訪⑦:「楢のやしろ」~「良因といふ寺」/「よしみねの寺」

奈良の旅の探訪一日目(16日)は、夕闇が迫った頃、二階堂駅で桜井駅に向かう電車に乗りこんだところで終わった。 (「すがた池」を探しながら、やはり1泊しようと決めた。歩き回るなかで、桜井駅近くの宿の予約をした。思えば、こうした成り行き任せの旅を…

歌人相模の初瀬参詣ルート探訪⑥:「いそのかみ寺と良因寺」

2015年当時、「良因寺跡」は現在の厳島神社(天理市布留町)一帯らしい…と漠然と納得していた。 今回、実際に現地を訪れた。 たどりついた厳島神社には「いそのかみ寺と良因寺」という解説板が立っていた。 その解説のなかに素性法師は登場せず、小野小町と…

歌人相模の初瀬参詣ルート探訪⑤:旅半ばの”もみぢ”の歌

良因といふ寺にて、ふるの社のもみぢを見る 107 よしみねの 寺にきてこそ ちはやぶる ふるの社の もみぢをば見れ 歌人相模の初瀬参詣7首(104~110)では、最初の104の歌には旅への祈りが、次の105の歌には旅のわびしさが、3首目の106の歌には歌人としての視…

歌人相模の初瀬参詣ルート探訪④:”さまよえる池…「すがたの池」”

すがたの池にて 106 行く人の すがたの池の 影見れば 浅きぞ そこの しるしなりける 16日、「二階堂駅」周辺では、行く先々で地元の人々…散歩する人、徒歩や自転車で家路を急ぐ?人々…に、何度も何度も「あの溜池なんですが…」、「この(地図上の)溜池なんで…

歌人相模の初瀬参詣ルート探訪③:「すがたの池」

16日は、飽波神社から「平端駅」に戻る際、安堵町歴史民俗資料館にも立ち寄った。 (汗ばむほどの陽射しから逃れ、仄暗くひんやりとした座敷で一休みすることもできた。) 資料館の座敷の棚に置かれていた『安堵町史』などの地域資料を手に取る。期待するよ…

歌人相模の初瀬参詣ルート探訪②:「あとむら」

9月16日、「なら仏像館」を見学したのち、近鉄「平端駅」に向かった。 電車の中で地図を取り出して眺める。歌人相模の初瀬参詣ルートについて、いよいよ机上の探訪から地上の探訪に移るのだ。じわじわと気持ちが浮き立ってくる。 _____________…

歌人相模の初瀬参詣ルート探訪①:復習…そして奈良へ

昨夏、歌人相模の初瀬参詣ルートについて、机上であれやこれやと思いめぐらした。 それから1年が経った。 今秋、その想定ルートの一部を歩いてこようと思い立った。 まずは、昨夏の妄想記事を読みなおし、抜粋して次の通りにまとめてみた。 (a) 「2015年7月…

寄り道の覚書:『多武峰往生院千世君歌合』の静範②

“伊豆配流となった静範”に係わる歌を詠んだ、藤原兼房・大弐三位・素意法師と、「多武峰往生院千世君歌合」について、これまでに理解したことをまとめてみた(参考:『新編国歌大観』・『平安時代史事典』・『新国史年表』・『平安人名辞典』など)。 〔藤原…

寄り道の覚書:『多武峰往生院千世君歌合』の静範①

『後拾遺和歌集』の藤原兼房の歌(996)と大弐三位の返歌(997)のやり取りのあとには、もう一首、“伊豆配流となった静範”に係わる歌(998)が続いている。 この素意法師の歌(998)の存在については、今回初めて気がついた。2012年時点で、作者の素意法師の…

寄り道の覚書:静範と「八幡の宮のことにかヽりて」②

藤原兼房の歌(『後拾遺和歌集』 996)の詞書に記された「八幡の宮のことにかヽりて」の意味について、今回自分なりに理解したこと・解釈したことは以下の通りとなる。 (ただし、996の歌の詞書が記された時点…1063年以降~1086年頃まで?…において、という…

寄り道の覚書:静範と「八幡の宮のことにかヽりて」①

これまで、歌人相模について、そして平安時代の相模国府の様相について、自分なりに一歩でも近づきたいと思ってきた。しかし現実は、寄り道で道草を食うのが精一杯、と分かってきた。基本的に力不足なのだと思う。虚しくはあっても寄り道で道草を食うしかな…

『弘徽殿女御歌合』③ 補記(赤染衛門・藤原義忠)

◆赤染衛門(?~1041以降)のこと: 「弘徽殿女御歌合」(1041年)の時点で、右作者の赤染衛門は80代の高齢と推定され、同年には曾孫の大江匡房(1041~1111)も誕生している。赤染衛門は、この最晩年の歌合以前、1035年の「賀陽院水閣歌合(関白左大臣頼通…

「弘徽殿女御歌合」② 「重服の者」歌人相模

『袋草紙』下巻の「一、撰者の故実」(撰者の心得ておくべき先例)のなかに、「弘徽殿女御歌合」の左撰者で左作者でもある歌人相模について、次のような言及がある。 「重服(ぢゅうぶく)の人、歌合の作者に憚りなき事か。一条院の御時、弘徽殿女御歌合に、…

「弘徽殿女御歌合」① 歌人相模の歌の評価

『賀陽院水閣歌合』(1035年5月)で歌人相模が詠んだ“五月雨”の歌は、「殿中鼓動して郭外に及ぶ」という逸話を残した。人々の大きなどよめきが波のように広がった一瞬は、その後も語り草として伝えられていったのだろうと思う。歌人相模の歌は、当時の人々が…

寄り道の覚書:『袋草紙』のなかの「三宮」と「義家」

図書館で『袋草紙』(岩波書店 1995年)を借りてみた。歌人相模に出会わなければ手にすることもなかった書物だ。いつもの通り“つまみ読み”をする。思いがけなく、上巻【自詠の評価に執する。憲永・匡房】の逸話のなかに、“輔仁親王(三宮)”が登場し、“源義…

覚え書:大江公資の”女事”

大江公資は長元8(1035)年5月16日、”賀陽院水閣歌合”(『関白左大臣頼通歌合』)に出詠する。別れた<二番目の妻>歌人相模や知友である能因も、ともに左方の歌人として出詠した歌合だった。そして歌人相模と大江公資の歌は”勝”の判を得た。 その華やかな歌…

寄り道の覚書:源義国妻の歌

歌人相模に関心をもちはじめてから、新しく名を知る人々が増え続けるばかりだ(みな800年以上も昔の人たちばかり…)。 11世紀の歌人相模から、さらに時代を下って、三宮相模君の名を知り、そこからまた周辺の人々の名を知る。源義国の名も、三宮相模君から源…

寄り道の覚書:”堅田の妻”と歌人大江公資の血筋

相模国司・大江公資の<妻>として相模国に下った歌人相模は、次のような歌を詠んでいる。 『相模集全釈』(風間書房)から 230 若草を こめてしめたる 春の野に 我よりほかの すみれ摘ますな この歌には、<妻>(歌人相模)の存在を忘れた相模国司・大江公…

寄り道の覚書:鎌倉のなかの”11世紀”の跡

歌人相模の何かしらの足跡を探してみようとするなかで、11世紀の鎌倉について再び興味をもつことになった。 11世紀の鎌倉に最初に興味を持ったのは、相模国府について学んでいた頃だった。『大磯町史』に挙げられていた11世紀の相模国司としての源頼義・源義…

寄り道の覚書:無品輔仁親王が詠んだ「をばな」の歌

____________________________________ 〔1116年8月〕 【『新編国歌大観』:「雲居寺結縁経後宴歌合」から】 ~五番 露 左勝~ 三宮相模君 9 ゆふされば をばな おしなみ ふくかぜに たまぬきみだる のべのしらつゆ _…

寄り道の覚書:源義綱朝臣女・伊与

昨年、『新編国歌大観』を眺めていた時、「寛治七年五月五日 郁芳門院根合」に女房方人の名が連なるなか、右女房方人の一人に「伊与 源義綱朝臣女」の名があった。一瞬、「義綱」の娘は歌人だったのだろうか、「伊与」とはどのような人なのか、と興味を持っ…

寄り道の写真:新羅三郎義光の墓所

大津市の新羅善神堂から法明院を経て、園城寺方面へと長等山中腹の山道を歩いた時、「新羅三郎義光」の墓所にも立ち寄った。 これまで、歌人相模の跡を追うなかで、「内裏相模」・「三宮相模」など、今までまったく知らなかった女性たちが姿を現し、寄り道で…

伊豆山神社「男神立像」のこと

2月の奈良への旅は、2012年に拝した伊豆山神社「男神立像」のその後を訪ねるためだった。 (奈良博での今回の特別陳列・講座の中心は、奈文研によって保存修理された「銅造伊豆山権現立像」だった。修理により見事に蘇った「銅造伊豆山権現立像」の、胆力を…

「まきおきし 石田のわせの たねならば…」の歌

~『相模集』(『相模集全釈』)から~ 78 雨により 石田のわせも 刈りほさで くたしはてつる ころの袖かな 相模 ~『題林愚抄』第六 夏部中(『新編国歌大観』)から~ 2254 まきおきし 石田のわせの たねなれば ほかにまだしき さなへとるなり 真観 15世紀…

「石田(いしだ)」(『相模集』78)のこと②

11世紀の大津市に「石田殿」が存在した可能性(本中真氏の論考による)をもとに、2016年2月、実際に大津市の法明院から園城寺方面へと、長等山中腹の道を歩いてみた。もちろん、その「石田殿」比定地と、「石田(いしだ)」(『相模集』78)の地を、そのまま重…